ジョーの中の何かが変化しつつあった。ペンダントの十字架が鈍く光っていた。
 彼の頭の中に、不思議な声が響いてきた。自分の声とは違うような気がする。
――オレの力を、少しの間貸してやる。お前の身体が耐えていられる間に、ヤツを倒すんだ――
 何者なんだ、お前は?
――オレはお前だ。オレはお前であって、お前ではない・・・――
 十字架がさらに光った。
 ――怒レ。憎メ。オマエノ力ヲ覚醒サセルタメニ――。
 ジョーの全身の血が、急速に高熱を帯び、全身を駆け巡った。熱さと苦しさのあまり、頭を抱え、絶叫する。
「う・・・あ・・・ああっ!!」
「ジョー!?」
 ユウには、何が起こっているのか理解できなかった。
「何をひとりで苦しんでいるのだ?オレを倒すと息巻いておきながら」
 クラーケンは、ジョーに向け嘲笑の声をあげた。
 ジョーは素早く立ち上がり、笑い声と視線をはね返すように魔物をにらみつけた。彼の目は憎悪と憤怒に冷たく燃えあがっていた。ユウの全身に一瞬悪寒が走る。あんな冷たい目は、今までに見たことがなかった。
「地獄を見せてやるぜ、ゲス野郎」
 ジョーは、冷たい口調で言い切った。意識して言っているのではない。彼の口が勝手に動いているのだ。
 オレは今、何を言っているんだ?身体が勝手に動く・・・。
「倒す、だと?こいつは滑稽だ!」
 クラーケンは高笑いした。
「ジョー・・・」
 近づこうとするユウを無言で制し、ジョーはゆっくり歩を進めた。表情ひとつ変えずに。クラーケンはせせら笑いを絶やさず、
「地獄を見るのはお前の方じゃないのか?」
 そう言うなり魔物はジョーの首を掴もうとした。ジョーはその手を軽く掴んだ。
「触るな」
「なんだと?」
 クラーケンが、ジョーの手を払いのけようとした瞬間、
「触るな、と言ったんだ!」
 ジョーは、クラーケンの手を掴んだ自らの手に、思い切り力を込めた。
 ぐしゃっと鈍い音がして、クラーケンの手が粉々に砕け散った。
「バ、バカな・・・オレの身体が・・・」
 クラーケンの顔に、驚愕と焦りの表情が浮かんでいた。
「くたばんな」
 ジョーはそう言うなり、右手を思い切り突き出した。拳が目にも止まらぬ速さでうねり、まるで一振りの剣のようにクラーケンの胸を貫いた。
「ギャーッ!」
 顔に、身体に返り血が飛ぶ。抱き起こしたときについたメグの血と合わさり、彼の服は赤と紫で染められた。
「ジョー・・・?」
 ユウは、彼を呆然として見ていた。
「あんなジョー・・・初めて見た・・・」
 呟くと、メグが朦朧としながらも言った。
「ジョーじゃ、ない・・・」
「メグ、気がついたか!ジョーじゃないって、どういうことだ?」
「あれは・・・ジョーじゃない・・・別の、何かが・・・」
 ユウはジョーに目をやった。ジョーは血まみれのクラーケンを前に呆然と立ち尽くしている。だが、先ほどとは気配が違っていた。
「ジョー!」
 ユウが呼びかけると、ジョーはのろのろと振り返った。その目はうつろで、顔色は蒼白だった。何が起こったのか理解できない、という表情だった。
「ジョー・・・一体何があった?」
 ジョーは答えず、クラーケンに背を向けて歩き出そうとした。と、
「おのれ・・・おのれええっ!」
 ジョーの一撃で倒したと思われていたクラーケンが、最後の力を振り絞って立ち上がった。片手には、メグとエリアに打ったのと同じ矢を持っている。予想外の事態に、振り返ったジョーの身体は一瞬硬直してしまい、逃げる機会を完全に失った。
「貴様も道連れだ、死ねーっ!」
「なっ・・・!」
「ジョー!」
 ユウが短剣をつかむ。クラーケンの矢が立ち尽くすジョーの心臓に迫る。そのときだった。
「・・・サンダガ!」
 後方から発せられた、巨大な雷光のヤリがクラーケンの身体を貫き、そのまま勢いよく吹っ飛ばした。
「グエエエーッ!」
 あたりに生臭いにおいが漂い、今度こそ魔物は動かなくなった。ジョーを狙った矢は、人間の赤い血で汚れることなく消滅した。
 ユウとジョーは、同時に術者の名を叫んでいた。
「メグッ!?」
 ふたつの声が重なる。サンダガを放ったのはメグだった。立ち上がり、魔法を使った勢いで、開いてしまった傷口から新たに血があふれ出す。
「間に、合った・・・ゴホッ!」
 やっとのことで言うなり、メグは血を吐き出して崩れ落ちた。ジョーが慌てて駆け寄り、抱えあげる。ふたつの信じられない思いで胸が詰まった。こんな状態で立てたこと、もうひとつは彼女が黒魔法を使ったこと。
「メグ!」
 ジョーが呼びかけると、メグはうっすらと目を開けた。
「ああ・・・ジョー・・・無事だった、のね・・・よかった・・・」
「よくねえよ!てめえ、何であんな真似したんだ!?人には無茶するなとか言ってるくせに・・・」
「わから、ない・・・気がついたら、身体が、勝手に、動いてたの・・・ジョーを助けなきゃ、って思ったら・・・」
「バカ・・・あれくらい避けられたのに、おまえはいつも余計なことをするんだから・・・」
「だって・・・誕生日が命日になっちゃうなんて、嫌でしょう?」
 こう言われて、ジョーは初めて、今日が何の日だったかを思い出した。
「仲間の命日はもっと嫌なんだけど?」
「大丈夫、わたしは死なないから・・・でもその前に、少しだけ休ませて・・・」
 震える瞼が狭まる。ジョーの焦った声が聞こえる。
「とかなんとか言いながら目つぶってんじゃねえよ!コラ起きろ、まだ寝るには早いぞ!」
「わたしね、ジョー、を・・・」
 言葉が途切れた。ジョーがメグに怒鳴りつけるのを見ながら、ユウはくすんだままの水のクリスタルをにらみつけた。エリアを抱えて立ち上がると、
「クリスタル・・・あんたたちは、何のためにおれたちを選んだんだ!?無駄に血を流させるためか!?それとも、自分は既に絶望しているということを見せ付けるためか!?当のあんたたちが希望をなくしているというのなら、おれは今すぐ光の戦士を辞める!あんたたちの犠牲になるために旅を続けてきたんじゃない!」
 彼には珍しく、感情に任せて叫んだ。と、
「や、やめてください、ユウさん・・・」
 意識を取り戻したエリアが、ユウの腕に触れた。
「エリア、喋るな!」
 エリアは苦しげにあえぎながら、
「クリスタルは・・・まだ、完全に目覚めていない、だけなんです。時間が・・・少し、かかるだけで・・・お、お願いです・・・わ、わたしを・・・クリスタルの、もとへ・・・」
「で、でも!」
 躊躇するユウを、エリアは意志の強い瞳でまっすぐに見つめた。
「大丈夫・・・です、から・・・わたしを・・・信じて・・・」
「エリア・・・わかった・・・」
 ユウはエリアをクリスタルのそばまで連れて行った。その間、エリアはじっとクリスタルを見つめていた。
「かけらを・・・」
 ユウから離れたエリアは、クリスタルに震える両手を当てた。最前埋め込まれたクリスタルのかけらが一瞬光り、エリアの血まみれの手の中にぽとりと落ちる。それを見たエリアはユウに微笑みかけた。
「何をする気だ?」
 エリアはそれに答えず、かけらをそっと床に置いた。
「我が・・・生命の、炎よ、光の戦士の・・・糧となれ・・・」
 かけらにかざした両手から、白銀の光が降りかかった。と、次の瞬間、かけらは光を帯びたまま上昇し、周囲すべてを銀色に染め上げた。まぶしさのあまり目をつぶったユウの耳を、かけらが砕け散る鋭い音が突いた。光がやむと、
「メグ!」
 ジョーが、嬉々とした声を上げた。
 メグの傷がすっかり癒えていた。そのまま深い眠りに落ちる。
「ありがとう、エリア!手当てを――」
 と、ユウは言ったが――。
 ユウの視界に映ったのは、力なく横たわるエリアの姿だった。
「エリアッ!?」

 ユウは、エリアを抱き起こした。
「エリア!しっかりしろ!」
 エリアは、わずかに目を開けた。だが、双眼はどこも見ていなかった。血の気が引いた唇を震わせ、
「く、クリスタルのかけらは・・・番人の分身であり、生命の精、でもあるのです・・・か、かけらが砕ける・・・ことは、番人の、死を、意味するのです・・・」
 ユウは愕然とした。
「そ、そんな・・・どうして、そこまでして・・・」
 エリアは哀しげな笑みを見せながら、
「ふたりとも死ぬより、ひとり生き残るほうが、いいでしょう?さあ、もう行ってください・・・闇を振り払い、この世界に、再び平和を・・・」
「エリアッ!」
「さ、さようなら、光の戦士・・・これで・・・わたしの使命も、終わ、る・・・」
 エリアは、最期の息を吐き、目を閉じた。エリアの身体を支えていたユウの腕がガクッと落ちた。
「エリ・・・ア・・・」
 ユウはエリアを抱いたまま、呆然として座り込んでいた。ジョーも顔を伏せ、涙を流さないとしてか、目をきつくつぶっていた。
「ひとり助かるより・・・ふたりとも助かるほうがずっといいに決まってるじゃないか・・・」
 ユウは独り言のように呟いた。

 ふと気がつくと、メグは真っ暗な空間の中に立っていた。まわりには誰もいない。少し経ってから、水の洞窟での出来事を思い出すことが出来た。
 ――死んじゃったのかな、わたし――
「いいえ、生きています」
 不意に聞こえてきた声に振り返ると、黒髪の少女が立っていた。エリアだ。
「ごめんなさい。約束、守れそうにありません。でも・・・」
 エリアはメグに近づくと、そっと抱きしめた。体温は感じなかった。
「エリアさん・・・」
「生きてください。そして好きな人と一緒に、幸せになってください・・・」
 意識が遠退いてきた。それでもまぶたが熱くなるのははっきりと感じられる。
 ――ありがとう、きっと闇の氾濫を止めてみせるから――

 眠っているはずのメグの身体が小刻みに震えだし、閉じた両目から涙が流れた。と、洞窟がグラリと大きく揺れた。地震だ。
 ユウたちが逃げようとしたとき、意識が急に消え、その場に倒れてしまった。気絶する寸前、自分たちを包みこむ水色の光を見たような気がした。
 夢かうつつか――ユウたちは、水のクリスタルの声を聞いていた。
 ありがとう、光の戦士。さようなら、エリア・・・。

 一昼夜にも及ぶ大地震は浮遊大陸にまで届き、人々を震撼させた。
 そのころ、下の世界では異変が起こっていた。
 海底に沈んでいた大陸が少しずつ少しずつ浮かび上がったのだ。石化の呪いも解け、人々は何が起こったか知らぬまま、もとの生活に戻っていった。
 水の洞窟の入り口に倒れていたユウたちが発見されたのは、大陸が完全に浮上してから十日後のことだった。

 闇の中でクラーケンが目を覚ますと、そばに冷酷な瞳のヘキナが立っていた。ジョーに負わされた傷も、サンダガで負った火傷もそのままだ。
「失敗作に用はない・・・」
 ヘキナは困惑するクラーケンの左腕をおもむろにつかむと、ためらわずにグイとねじるように引っ張った。グチャという不快な音とともに、血肉が飛び散り、紫色の腕輪が落ちる。
「ぎ・・・ぎゃあああっ!!」
 地獄のような痛苦に、クラーケンは大声をあげてのたうちまわった。その姿はみるみるうちに変化し、やがてグツコーのそれに戻った。だが、引きちぎられた腕はそのままで、傷口からは骨と肉が飛び出し、血のような膿のような液体が流れ出ている。
「うるさいぞ」
 グツコーの口に最前引きちぎったばかりの腕を突っ込む。息苦しさにもがく盗賊を冷ややかな目で見ながら、ヘキナは腕輪に目をやった。
「試作品の割には上出来だったな・・・さて、これをどう活用していくか・・・うん?」
 ヘキナはグツコーを見た。先ほどまでの騒がしさはどこへやら、今は目はうつろ、口からは涎と泡があふれて放心状態という言葉がまさにピッタリ当てはまる。
「片付けるか」
 ヘキナが手をかざすと、グツコーの身体は黒い光に包まれて・・・消えた。

 下の大陸にある小さな街。ここにある小さな診療所を、ひとりの中年女性が訪れていた。
「先生・・・あの患者さん、どうですか?」
 先生、と呼ばれた白衣の男は、その問いに首を振り、
「ダメだね。左腕は完全になくなっているし、あの精神状態では一生正気に戻ることはないだろう。一体何があったのか・・・」
 ――病室のベッドでは、ひとりの男性が起きあがっていた。だがその視線は虚空をさまよい、目を開けたまま長い眠りについていると言う感じだったが・・・不意に男の目がカッと開き、すべての恐怖の感情を表に出したような、言葉にならない言葉で叫んだ。
「う、ううあ、あああ・・・がああああっ!!」
「・・・いかん、また発作だ」
 叫び声を聞いた白衣の男は、急ぎ病室へと向かっていった。