埃臭さと肌寒さを感じて、メグは目を覚ました。
「ここは――?いたっ・・・」
 起き上がったとき、殴られた箇所に痛みが走って顔をしかめた。
 暗がりに目が慣れてくると、寝室でもない、居間でもない、殺風景なだだっぴろい部屋にいるということがわかった。自分は、その部屋の隅に置かれた革ばりの長椅子に寝かされていたのだ。明かりと呼べるのは、床に置かれた小さなランプだけだ。
 椅子にかけたままあたりを見回すと、至るところに本が山積みにされているのが分かった。一冊手に取り、表紙を見る。古さのため、金文字で書かれた題名はところどころかすれていたが、何とか読み取る事が出来た。
「『黒魔術』・・・?何でこんなものが」
 魔界と契約し、禁断の呪術に手を染めて己の欲望を満たす法。故に数百年前に封印され、黒魔術のことを記した書物、文献はすべて焼き払われ、術に手を出した者は厳罰に処せられた――そういう話を本で読んだことがある。黒魔術を使う目的のほとんどが「他人を呪い殺すこと」だったということも。――悪い予感が胸を満たした。
 自分を気絶させ、ここに連れてきたのはダコタに間違いない。とすると、この本もダコタの所有物。ダコタは黒魔術を使おうとしている――いや、既に使っているのかもしれない。とにかく、ここから脱出して、ユウとジョーにこのことを知らせたほうがいい。
 メグが足を引きずりながら歩き出そうとしたとき、足元がふらついた。
「あっ!」
 メグの身体が前に泳いだ。その拍子に、肩を強く壁にぶつけてしまう。
「痛っ!」
 ぶつけたところを押さえながら、メグは壁を見上げて――不審なことに気づいた。木の壁にひびが入っているが、ぶつかったときの感触がおかしかった。支えのない、薄い板きれにぶつかったときのような感触だった。それに、人ひとりぶつかった程度で、壁にひびが入るなんてことがあるだろうか?
 メグは少し考えたあと、ひびの入った部分に手をかけると力をこめてはがそうとした。額にうっすらと汗がにじんだころになって、ようやくベリベリと音を立てて壁がめくれる。中を覗き込み・・・次の瞬間には、ミイラ化した死体とまともに顔をつき合わせていた。本物の壁と偽装のために貼り付けた板切れの間に、挟むようにして隠していたのだ。
「き・・・きゃあああっ!!」
 気がつくと、メグは悲鳴を上げていた。腰が抜けてしまい、へたり込んだままの姿勢で数歩後ずさりする。その声に反応するかのように、ミイラがガシャンと音を立てて床に崩れ落ち、頭蓋骨が転がった。
「気がついていたのか」
 声がしたほうを見ると、いつの間に来たのか、ダコタが立っていた。その後ろには、ひとりの女性がいる。女性は、仮面のように表情がなかった。まるで、生命を吹き込まれた人形のようだ。
「紹介しよう。妻のリゼットだ」
 ダコタは、女性の肩を抱いて微笑んだ。
「きみをここに連れてきたのは、きみの精気をもらうためなんだよ」

 ユウは、頭を抉られるような痛みを覚えて、目を開いた。
 ・・・おれ、どうしたんだっけ?
 ユウは、記憶の糸をたどった。出されたお茶を飲んだら、急に眠くなって・・・。変な味がしたと思ったら、やっぱり、何か薬が入っていたんだな。
 手足に力を込め、そろそろと立ち上がると、テーブルに突っ伏したままのジョーの身体を揺さぶった。
「起きろ、ジョー!」
 更に激しく揺さぶるが、ジョーが目を覚ます気配はない。ユウは思い切って、ジョーの顔をひっぱたいた。それを三度繰り返したとき、ジョーは目を開けた。そして我に返ると、
「いってえな、何するんだよ!おれに何か恨みでもあんのかてめえ!?」
 ユウの首元をつかみ怒鳴り散らした後で、頭を抱えた。
「あ、いてえ・・・。あれ、そういえばどうしちまったんだ?こんなところで寝てたなんて」
「ゴホッ・・・お茶の中に薬が入ってたんだ」
「薬?なんでそんなもんが」
 お茶に薬を混入したのは、ダコタの仕業と見て間違いないだろう。なぜそんなことをする必要があったのか?良からぬ事を企んでいるのは間違いなさそうだ。でなきゃ、薬を盛るなんてことはしない。
「ダコタを探そう」
 ユウは、念のため、と前置きして剣を腰に収める。足を負傷しているため、ジョーは黒魔道師になった。途端に思いついたことがある。
「なあ、メグは起こさなくてもいいよな?」
「えっ?」
 ユウは一瞬キョトンとした後、凄い勢いで居間を飛び出した。ジョーはわけが分からなかったが、あわてて後を追う。
 ユウとジョーは、二階の寝室に飛び込んだ。
「メグッ!・・・くそ、遅かったか・・・!」
 部屋の中は、もぬけの殻だった。
「おい、どういうことだよ!?」
「ダコタだよ!奴が、メグをさらったんだ!」
「なんだって!?」
 ジョーは愕然とした。ユウは、ベッド脇のテーブルに置いてある鉢とカップを取り上げた。鉢の中には飲みかけのスープ、カップの中には手付かずの薬湯が入っている。神経を鼻に集中させ、交互に匂いをかいでみる。薬湯から、様々な薬草の香りに混じって、かすかな臭気を感じる。お茶を飲んだときに感じたのと同じものだ。
「この薬湯、お茶に入ってたのと同じ匂いがする」
「でも、メグは飲まなかったみたいだぜ」
「殴るなりして力ずくで連れ去ったんだよ、きっと。布団がこんなに乱れてる。それに・・・」
 ユウは、布団の上に落ちている白い布きれを拾い上げた。
「包帯だ。抵抗したときにほどけたんだ、きっと」
 ジョーは壁に拳を叩きつけた。焦りのあまり、ややろれつの回らない口調で怒鳴る。
「くそっ、あいつはどこに行っちまったんだ!?」
 ユウははやる気持ちを抑えて、必死に考えた。外に出たのか?それともまだこの診療所の中にいるのか?
 仮に外に出たとしても、それでは街の住人たちに見られる可能性は高い。夜とはいえ、この街には酒場もあるので、まったく人通りがないわけではない。とすると、この建物の中に隠れていると考えたほうがいい。
 ユウは今日一日の出来事をことこまかく思い出そうとした。何か手がかりがあるかもしれない。部屋の中に広がる薬草の香りが、ユウを逆に焦らせる。
「ん?匂い・・・」
 ユウは、一階奥の部屋に行ったときのことを思い出した。ダコタは、ユウに部屋の中を見せないようにしていた観がある。扉を半開きに抑え、部屋から出てきた直後、急いで扉を閉めていた。それに、ユウがリゼットの容態を訊いたとき、「あと一息」と言っていた。何か引っかかる言い方だ。そして、奇妙な匂い。あれと同じ匂いを感じたことがある。ジンと戦った、封印の洞窟。
 死霊と戦ったあとの地下二階の集団墓地には、死臭が漂っていた。常人より鋭敏な嗅覚を持つユウは、それをほかのふたりより強く嗅ぎ取り、吐き気すら覚えたのだった。
「ジョー。一階へ行くぞ。奥の部屋だ」
「そこにダコタがいるのか?」
 ユウは答えず階段を駆け下りた。はっきりした根拠はない。納得させられる説明も出来ないし、自分でもなぜ、この結論に至ったか分からない。ただのカンでしかないのだ。だがそれでも、すがりつかずにはいられない。そんな心境だった。

「何ですって!?」
 ようやく立ち上がったメグは叫んだ。
「妻は、人間の精気を吸わないことには生きていけないんだよ。生き返った代償としてね」
「生き返った・・・?まさか『黒魔術』を使ったの!?」
 メグの問いに、ダコタはうなずいた。黒魔術に手を出すのは、誰かを呪い殺すためだとばかり思っていたが、実際はその逆だったのだ。
「リゼットは、半年前一度死んだ。私は悲しみのあまり、後を追うことも考えたが・・・ちょうどそのとき、この隠し部屋を見つけたんだ。ここには、処分を免れた黒魔術の文献がどっさりあった。私は思ったね。『これこそ、天の配剤だ』と。私は早速儀式を行った。結果はご覧の通り大成功だったよ。その代わり妻は、精気を欲するようになった。今の身体を保持するために」
「じゃ、この人も・・・」
 メグは、床のミイラに目をやった。ダコタはそのミイラをポンと蹴りつけ、
「そうだ、病で倒れた旅人でね。薬で眠らせてからゆっくり精気をもらったよ。おまえもあの薬湯をちゃんと飲んでいれば、何も知らずに事が済んでいたものを。おかげで、こっちも手荒な方法に出ざるを得なかったが・・・」
 ジョーから渡された薬湯。吐き気がして飲むのをさぼってしまったのだが・・・。
「ま、どちらにせよ結果は同じだ。リゼット」
 それまでずっと無表情だったリゼットがニヤリと笑うと、身体がたちまちのうちに醜く変化した。髪が逆立ち、目が吊りあがり口は裂け、背中から黒い翼が生える。その姿は魔物のそれと相違なかった。オーエンの塔で戦ったフリアイと酷似していた。
「クク・・・若い女の精気は特にうまいんだよな・・・」
 リゼットは――いや、その魔物は低い声で言った。
 メグの背中に悪寒が走った。ダコタの黒魔術で召喚された魔物が、リゼットの亡骸に憑依し「延命行為」と口実をつけてダコタに協力させているのだ。
「なぜ平気なの!?ここにいるのはあなたの奥さんなんかじゃない、ただの魔物よ!」
「確かに今はこの姿だが、それはおまえの精気をとりこむ間だけだ。すべてが終われば彼女はまたもとの姿に戻るから、何の問題もない。リゼットといられるなら、私は何でもやるさ」
 メグは唇を震わせた。そして、爆発するように叫んだ。
「そんなの、間違ってるわ!あなたは狂ってる!」
「黙れ!」
 ダコタが叫ぶと、メグの身体が見えない力をぶつけられたように吹っ飛んだ。
「おまえなんかに何が分かる!」
 魔物の指が勢いよく伸び、メグめがけて襲いかかった。とっさにかわしたメグの頬に痛みが走った。体勢を立て直すと、魔法の構えを取った。だが、
「聖風の奏でる・・・きゃああ!」
 指先に魔法の光が生じた瞬間、メグの全身を雷に打たれたような激しい衝撃が走り抜けた。
 くずおれたメグに、ダコタは笑いながら言った。
「床をよく見るがいい・・・」
 顔を上げ、床に目をやると、紫色に光っている。光は、床に刻まれた古代文字と文字を囲む大きな円から放たれているのだ。
「魔法陣・・・!?」
「ククク・・・私が何の防備もしてないと思っていたか?これはサイレスの力を基にして創られた黒魔術だよ。魔法を使った者に対して危害を加える性質を持っているんだ。今のおまえは丸腰も同然だ。諦めることだな」
「で、でも・・・わたしがいなくなったら・・・ユウとジョーがあなたを疑うわ」
「心配ご無用、彼らは薬でお休みさ。後でふたりに、おまえのことを忘れるよう暗示をかけておく。そうすればヤツらは何事もなかったようにここを発つだけだ」
「そ、そんな・・・」
 メグの全身からふっと力が抜けた。
「さ、リゼット。邪魔する者はいない。存分に味わいなさい」
 リゼットの面影がまったく残っていない魔物が力を集中させると、メグの身体がふわりと浮かび上がり、そのまま魔物の前まで移動した。
 魔物は舌を伸ばし、メグの喉元に近づけた。刹那、部屋の扉がバンと開き、ユウとジョーが飛び込んできた。一階の奥部屋の床にあった隠し部屋への入り口を見つけたのだ。
「メグッ!・・・!?」
 ふたりは、部屋の異様な光景に一瞬立ちすくんだ。が、すぐさまユウが魔物に突っ込む。剣が魔物の羽を傷つけると、メグの身体が支えを失った操り人形のように落下した。床に叩きつけられる寸前でジョーが受け止める。
「貴様!」
 魔物がジョーにつかみかかる。ジョーは持ち前の素早さで難なくかわすと、足の痛みをこらえながら、大きく跳んで部屋の隅まで移動した。ちょうどそのとき、メグが意識を取り戻した。
「ジ、ジョー・・・」
「メグ、何があったんだ!?」
「あいつが・・・黒魔術で・・・奥さんを、化け物に・・・」
 途切れ途切れに話すのを聞いて、目の前にいる魔物がリゼットだとなんとか理解はした。
「なんだって・・・!?」
 一瞬唖然としたが、ユウの悲鳴で我にかえった。
「ユウッ!」
 魔物の指が、ユウの肩を貫いていたのだ。真っ赤な血が床に滴る。
「見られたからには仕方がない、おまえらの精気も吸い尽くしてくれる!」
 引き抜いた指についた血をねぶりながら、魔物は高笑いをした。
「精気・・・だあ?」
「そうだ。一定期間に人間の精気をとらないと、リゼットは生きられないんだよ。おまえらがこの街に来ることをリゼットが教えてくれたから、ちょっと一芝居打たせてもらったんだ。私が呼び出した魔物と一緒に」
「はあ・・・つまり、おれたちが戦ったのは、あんたが召喚した魔物だったわけだ。いかにも自分が襲われているように見せかけて、おれたちに助けを求めたわけだな」
「大した手間だぜ」
 ジョーが皮肉った。
「ただひとつの誤算は、おまえらの強さだった。私も強硬手段に出ざるを得なかったわけだが・・・」
「あれは、『ポイズン』の魔法だったのね・・・」
 ジョーは、メグがホーネットの毒針に刺されたと思い込んでいた。ユウは、ダコタに背を向けていたため、彼が魔法を使ったところは見ていない。三人は、ダコタの掌の上で踊らされていたも同然だった。
「全部あんたの計画だったんだな・・・おれたちをここに連れてくるための」
 ユウは肩を押さえながら立ち上がった。
「そうさ、すべてはリゼットのためなんだよ」
 ダコタは独り言のように言った。
「あんたにゃ悪いが・・・その魔物には消えてもらう!」
 ユウは再び突っ込んだ。
「援護するぜ」
 ジョーは魔法の構えを取ろうとした。だが、メグがその腕をつかんだ。
「ま、待って!魔法はだめ!」
「えっ?」
「あれを見て・・・」
 ジョーと、攻撃を跳ね返されたユウは、メグの指すほうに目をやった。
「魔法陣・・・か!?」
「ちっ・・・何から何まで用意周到だな」
 ジョーは舌打ちした。足が使い物にならない今の状態でモンクになることは不可能だ。
「ならば力で倒すだけだ!」
「ユウッ!」
「メグを頼んだぜ!」
 言うが早いか、ユウは剣を突き出し走り出した。肩の傷口から流れる血が床に細帯を作る。
「そんなに死に急ぎたいか、小僧!」
 魔物が翼を広げると、そこから発せられた無数の羽が、ユウに向かって突進してきた。
「くっ・・・」
 短剣のように鋭い羽が、必死に身を守るユウの全身を容赦なく切り刻み、更にはジョー、メグをも襲わんとする。
「わああっ!」
「ジョー!」
 とっさにメグをかばったジョーの背中に、深々と羽が突き立っていた。痛みと衝撃で、ひどくむせた。
 ユウは激しく喘ぎながらガクリと膝を折った。全身が破裂するような痛みと、流れる血の生ぬるさに意識を持っていかれそうになる。突いた手が床に流れた血でぬるりと滑る。
「ん?この手があるか・・・」
 我に返ると、魔物の指が再び迫っていた。ユウは攻撃をかわしつつ、苦痛に耐えながら部屋内を動き回った。
「無駄なことを・・・」
 剣を構えて突っ込んできたユウの身体を、魔物の指が素早く縛り上げ、高々と持ち上げた。
「うわああっ!」
 必死にもがくが、抗うほど指が激しく全身に食い込み、骨がきしむ音が響いた。力の抜けたユウの手から剣が滑り落ち、たちまちのうちに顔が青ざめる。
「ユウを放せーっ!」
 たまらずジョーが魔物に飛び掛かり殴りつけたが、黒魔道師になった今では、攻撃力も勢いもモンクのそれより遥かに劣っていた。魔物は彼の攻撃に痛痒を覚えた様子も見せず、逆にもう一方の指を伸ばしてジョーを絡めとり、激しく締め付けた。
「くっ・・・」
 ジョーの顔もみるみる青ざめる。
「ユウ!ジョー!」
「リゼット・・・そのままやってしまえ!」
 余裕の表情で戦いを傍観していたダコタが言った。
「メグ・・・」
 朦朧とする意識のなかでユウはメグに呼びかける。
「魔法・・・使え・・・」
「バカか、貴様は。魔法は使えんと言ったのに・・・」
 戸惑うメグに、
「頼む・・・信じて・・・くれ・・・」
 メグは頷くと立ち上がった。そして魔法の構えを取る。
「どうせ痛い目見るだけだ・・・」
 ダコタが言いかけた瞬間、メグが放ったエアロが魔物を直撃した。弾みでユウとジョーの身体が落下する。
「なっ・・・!?」
「うまくいったぜ・・・!」
 狼狽するダコタとは対照的に、床に転がったユウはニヤリとした。
 ダコタは反射的に魔法陣を見た。魔法陣があるはずの場所は、一面ユウの血で染まっていた。真っ赤な血が魔法陣の紋様や文字を消し、結果的に魔法陣を未完成状態にしているのだ。
「無駄にちょこまかしていたわけじゃない・・・!」
「よし、オレも!」
 素早く立ち上がったジョーが、後ずさった魔物めがけてサンダラを放った。強烈ないかづちに打たれた魔物が耳障りな悲鳴をあげる。その悲鳴を止めたのは、黒焦げの身体に深々と突き立ったユウの剣だった。
「リゼットー!」
 ダコタが絶叫し、へたりこむ。ユウは、魔物の屍から柄だけになった剣を引き抜いた。呆然とするダコタを横目で見ながら。
 崩れ落ちた魔物の身体が青白く燃え上がった。やがてその炎は弱まり、完全に消えたときには、その場に残るのは黒い灰のみだった。
「リゼット・・・」
 ダコタはそっと灰をすくい上げた。指の間から、灰が煙のように舞い上がり、零れ落ちる。
「私は・・・私は、リゼットを愛していたんだ、ただリゼットと一緒にいたかった、それだけなんだ・・・」
「ざけんじゃねえ!」
 ジョーが叫んで身構えたと同時、横から飛んだユウの拳がダコタに炸裂していた。
「立てっ!」
 ユウはダコタを無理やり引き起こすと、さらに数度殴りつけた。その間、ダコタは紙人形のように無抵抗だった。
「ユウ――」
 ジョーとメグは、止めるのも忘れて、呆然とユウの言動を見ていた。
「おまえなんか、ただの人殺しだっ!おまえは人間の姿をした魔物だっ!」
 子供のように喚きながらユウはダコタを突き放した。ダコタの顔は血まみれになっていた。
「私が・・・人殺し?魔物?ひどいじゃないか、リゼットを助けたかっただけなのに。幸せになりたかっただけなのに。何が悪いんだ・・・」
 血もぬぐわずに呟くダコタの目は、床の灰しか見ていなかった。

 ユウたち三人は、夜明けのギサールを飛び出すと、そのまま船を出した。
 昼過ぎ、甲板には、ユウの姿があった。
「あのときのおれ、どうかしていた・・・」
 ユウは、自分の手のひらを見つめながら言った。
「もしかしたら、ダコタを手にかけてたかもしれない・・・いくら人間でも、あんなこと・・・」
「――奴をたぶらかした魔物が悪いって割り切れば済む話かもしれないけど」
 ジョーは船の食堂からユウの様子を見ながら呟いた。
「そう簡単にはいかないよな」
「もとはといえば、ダコタが黒魔術に手を出したことが発端だもの」
「ユウの奴もなー、あんな野郎のことをひとりでしまいこむことはないと思うけれどな。なんせ・・・」
 ジョーは、拳をぐっと握り締めて、視線を落とした。その瞳は暗かった。
「あいつが殴らなかったら、オレが奴を殺ってたかもしれねえんだから・・・」

 ユウが食堂に戻ってきたのは、空が薄紫色に染まりかける頃だった。
「メグはどうした?」
「部屋に戻った。それより、大丈夫か?」
 ジョーが問うと、
「まあな・・・。今回のことは完全に整理がついたわけじゃないけど、めげてる場合じゃない。今は先に進むことを考えよう・・・今言えることはそれだけだ」
「そうか・・・よし、そうと決まりゃ、飯にしようぜ」
「今日はおまえだったな。その足じゃ辛いだろうから、おれが代わるよ」
「味付けのときにはオレを呼ぶんだぞ」
 ユウは立ち上がった。ジョーに背中を向けた瞬間、表情は一転して曇った。
 事件の衝撃はかなり薄れた反面、後悔の気持ちはまだ残っている。その後悔は、ダコタを殺そうとしたことによるものなのか、或いは殺さなかったことに対するものなのか。どっちつかずの悔いだけがユウの心に一点のシミを残していた。

 ダコタは、ユウたちが出て行った後も、その場から動こうとしなかった。機械的に床についた灰を手に取っては、顔に押し当てたりそっと舐めてみたりしている。
「リゼット・・・きみは私のすべてだったのに・・・私の気持ち、どうしてあのガキ共は理解しなかったんだ・・・?」
 と、ダコタの背後の空間が歪んだ。そこから現れたのは、黒いローブをまとい、毒々しい紫色の木で作った大きな杖を持った異形の魔物だった。
「奴がやられたとは・・・これで契約破棄だな」
 ダコタは魔物に気づくと顔をこわばらせ、
「ひっ・・・来るな化け物!」
 叫び声をあげた。
「それはお互い様だろ。約束を忘れてもらっちゃ困るよ、契約者さん」
 投げつけた紫色の杖が、逃げようとするダコタの背中に突き刺さった。魔物が杖の端をくわえると、杖はほのかな赤い光を放った。魔物が水でも飲むように喉を鳴らすと、ダコタの身体はどんどん枯れ木のように痩せ細り、干からびていく。
 数分後には、ダコタが手にかけた旅人のミイラの横に、ダコタ自身のミイラが投げ出された。
「さて、と・・・。性分ではないが、後始末くらいはやっておこうか」
 診療所が火元不明の火事になったのはその直後のことである。焼け跡からは、誰の死体も発見されることはなかった。