メグは、昨夜行ったところと全く同じ場所にたどり着くと、冷たい湖水に両手を浸し、涙で汚れた顔に叩きつけるようにして洗った。それを何度も繰り返すと、熱くなっていた感情が次第に冷めてきたが、同時に後悔の念にも捕らわれた。白いため息が、霧に混じって消えていった。
 正直、自分の考えが間違っているとは思っていない。アルスは父の死後、王位を継いだ。それは当然のなりゆきかもしれないが、王の責務はあまりにも重すぎる。その精神的な負担を和らげてくれるのはアドバイスをする家臣でも護衛する兵士でもない、身内だけだ。
 メグは、アルスをこれ以上孤独にさせたくなかった。だから、ただ強くなることを強要して突き放すジョーの態度は、冷淡にも無責任にも思えてしまったのだ。闇に突き落とされた者に一筋の光を与えることは過保護でもなんでもないはずだ。
「ジョーに、アルスの家族になって欲しかった・・・ただ、それだけなのに・・・」
 と呟いたときだった。突然後ろから、ズズズ・・・と何かを引きずるような音が聞こえて咄嗟に振り向くと、巨大な人面蛇がすぐ側まで接近していた。
「キャーッ!」
 思わずメグは悲鳴をあげて飛びのいた。蛇、いや、闇の魔力によって生み出された魔物、ウロボロスは藍色のざんばら髪を振り乱しながら、メグに襲いかかってきた。
 紙一重のところでその攻撃をかわすと、メグは魔法をかけようとした。
 だが、一瞬はやく、ウロボロスの尻尾がうなりをあげて、メグの身体を鞭のように吹っ飛ばした。地面にしたたか後頭部を打ちつけ、意識が遠のきかけた。そこを狙い、魔物が再び牙をむいて肉薄する。
 メグは地面を転がり何とか避けようとした。途端に右足に激痛を感じた。
 牙が足をかすめたのだ。ふくらはぎから血が出ていた。
「あっ・・・」
 ウロボロスは、メグの身体に素早く尻尾を巻き付けると、激しく締めつけた。メグは必死にもがいたが、少しすると全身から力が抜けた。
 ウロボロスは、メグが完全に気を失ったのを確かめると、血に飢えた牙を剥きだして、彼女の白い喉に突き立てようとした。
 そのときだった。
「ギャオオオッ!」
 ウロボロスは不気味な悲鳴を上げ、メグを地面に落とした。全身を打った衝撃で、メグの意識が戻った。
 痛みと痺れをこらえながら見上げると、ウロボロスが巨大な竜巻に巻き込まれ、上空に舞い上がっていた。真空の渦が容赦なく肉を切り裂く。黒く粘った血が、メグの顔にまで飛んできた。
 霧に隠れてよく見えないが、湖の上に大蛇の影がある。大きさはウロボロスより小さいものの、攻撃力はずっと上のようだ。現に、ウロボロスを翻弄している。メグは、掠れた声で呟いた。
「リ・・・ヴァイア・・・」
 竜巻は、ウロボロスが完全にバラバラになったところで止まった。
 大蛇はメグをじっと見つめた。メグもそれに応えるように見つめ返す。その双眸にすっと銀色の光が差したとき、
「メグッ!」
 ユウとジョーが駆けつけてきた。
 ジョーとメグを捜しに来たユウが、森の中にいるジョーを見つけたとき、ちょうどメグの悲鳴が聞こえたのだ。
 ふたりは急ぎ悲鳴のした方へと走った。が、濃霧に視界をさえぎられ、なかなか思い通りに進めなかった。湖に近づくにつれて血なまぐさい匂いが鼻を突き、ふたりの頭の中を最悪の事態がよぎっていたが、座り込んでいるメグを見て最悪の想像は打ち消された。
「こ、こいつは・・・!?メグ、離れろ!」
 ユウは咄嗟に剣を抜こうとした――が、なぜか金縛りに遭ったように、指一本動かない。
 鋭く光る銀色の双眼。薄紫の髭に、水色の胴と尻尾、銀色の鰭。周りのものを圧倒させる空気を纏っているようなその姿は、ただならぬ威圧感を与えた。ジョーは「このまま食われる?」とも思っていた。
 不意に大蛇が雄叫びをあげたその途端、ユウたちの意識は途切れてしまった。

 顔に冷たいものが当たったような気がして、ユウは目を覚ました。傍らでジョーとメグが倒れていた。
「ここは・・・?」
 辺りは暗く、空気はひんやりと冷たい。遥か頭上には、天井の代わりに波打つ水面が見える。
 ここはまさか、湖底?そんなことを考えながら、ユウはふたりを起こした。
「――ここがドールの湖の底だって?信じられないな」
「とりあえず、先に進んでみよう」
 と、ユウが提案したときだった。奥の方から、光を纏った大蛇が現れた。湖で見たものより小型だが、外見は同じだった。
「こいつっ!」
 ユウとジョーは身構えたが、メグが制した。
「待って、敵じゃないわ。さっき助けてくれたの」
 蛇は、向きを変えると、今来た方向へと戻り始めた。
「ついて来いってことか?」
 だだっ広い空間にひたすら靴音を響かせながら、ユウたちは光る大蛇の後を追った。
「一体どこまで行きゃいいんだ・・・」
 ジョーがぼやいたとき、長いトンネルの出口に、ようやく仄かな白い光が見えてきた。光の中心には、ボンヤリと人の姿が見える。と、大蛇が一条の光に姿を変え、白い光にまっしぐらに向かう。ふたつの光が混じり合い、消え失せると、ひとりの若い男性が立っていた。
 時折銀の光沢を放つ青い短髪。雫型の石がついた額飾り。透明感のある銀の双眼。鼻筋の通った端正な顔立ち。微かに端の上がった形の良い唇。大きく尖った両耳が、幻獣の証だった。
「あんたがリヴァイアサン・・・か?」
 ユウの問いに、男性は頷いた。
「待っていた、光の戦士」