ただの夢にしては、あまりにも生々しすぎた。それが、ユウが目覚めてからの感想だった。

 気がついたとき、彼はひとり草原に立ち、柔らかい土を踏みしめていた。すぐそばには芽吹いた木々が連なる森。鮮やかな色の空を泳ぐ真っ白な雲が、風に乗ってゆっくりと通り過ぎていき、やわらかな陽光が空気を、地面を暖めた。

 春なんだ。ユウは直感的にそう感じた。何気なく、足下に咲いていた小さな野の花に触れてみたが、彼の手は花をすり抜けてしまった。

 幽霊になったのかと思ったが、不思議に恐怖感を感じたり、気が遠くなったりはしなかった。一番恐れているものにいざ自分がなってしまうと、意外に開き直ってしまうものらしい。

 さて、おれはどうすればいいのかな?そう思ったとき、ユウの身体が地面を滑るように移動し始めた。目に見えない力で誘導されているようだった。

 そのまま進むに任せていると、やがて前方に一軒の館が見えてきた。二階建てで、大きさはウルの自分たちの家とさほど変わりはない。石造りで屋根の色や壁の色は異なるが、館が持つ、来訪者を温かく出迎えているような雰囲気は似たものがあった。そのまま木の扉をすり抜けて、中に入る。と、弾けるような子供の笑い声が聞こえてきた。

 客間に入ってみると、三人の子供たちが遊戯盤に興じていた。対戦しているのは、一番年上と見られる金髪の少年と、一番年下と見られる長い黒髪の少年。それを楽しそうに観戦しているのは、柔らかそうな亜麻色の髪をおさげにした少女と、彼女の肩に乗るオウムだ。盤上は様々な形の黒と白の駒で占められており、ぱっと見では黒い駒が優勢と見られる。

「これでどうだ!」

 金髪の少年が黒い駒を動かす。ユウの目から見ても、これで勝負は決まったな、と思えた。が、黒髪の少年は余裕たっぷりの表情を崩さず、目前に置いてある皿から焼き菓子をひとつ摘み、ぱくりと頬張った。

「ジッタ、悪いけど今日こそはボクが勝つよ」

 金髪の少年が、自らがジッタと呼んだ少年に勝利宣言をする。ジッタに残された道は降参しかないと思えたときだった。

「ごめんねドーガ、今日も勝たせてもらうよ」

 言うなりジッタは、白い駒を取り上げ、おもむろに移動させた。駒が桝目に止まるのと、金髪の少年が「しまった!」という表情を作ったのはほぼ同時だった。そしてその様子を見ていたユウは、「なるほどね、こういう手があったのか」と感心しながら盤を見ていた。

「連敗記録の更新ね、ドーガ」

 おさげの少女が楽しそうに言う。ドーガと呼ばれた少年は仏頂面で焼き菓子をボリボリかじりながら、

「うるさい。ウネは見ているだけだから、そういうことが言えるんだ。次はおまえがやってみろよ」

 その言葉に従うように、今度はウネと呼ばれた少女とジッタが向かい合う。勝負がついたのはそれからまもなくのことだった。

「あーあ、また負けたよ。ウネには敵わないな」

「ドーガが弱すぎるだけよ。大体、考えることがいつも一緒なんだもん」

 ドーガは唖然として、ウネ、ジッタ、遊戯盤を順番に見回していた。ウネからかけられた辛辣な言葉も耳に入っていないらしい。ウネの肩にいるオウムも、ケラケラと笑い声を立てている。

「マグまで笑うのか!なら、カードで勝負だ!」

 ドーガがカードの束を取り上げたとき、玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。

「こんなときに誰だよ・・・はーい」

 ドーガが扉を開けると、ひとりの若い男性が立っていた。この季節にはやや暑いのではと思われる、えんじのローブにフード姿。誰だろう?とドーガがいぶかしんでいると、男性は微笑みながら話しかけてきた。

「こんにちは。ノアさまに会いたいんだけど・・・今大丈夫かな?」

「うん、ノアさまなら書斎にいるよ。案内しようか?」

「ああ。頼むよ」

 二階への階段をあがるドーガと男性を、ウネ、ジッタ、オウムは客間から見ていたが、

「あ、そうだ。お客さんならお茶を入れたほうがいいよね」

「そうだね、ぼくがやるよ」

 ジッタは立ち上がって振り向いたが・・・ちょうどそのとき、ユウと目が合った。いや、ジッタたちにはユウが見えるはずがないので、ユウが勝手にそう思っただけなのだが・・・その瞬間、奇妙なことが起こった。

 ジッタの銀の瞳を見たとき、胸の奥がミシリときしむような不思議な感覚に襲われた。ジッタの全身から見えない氷の剣が飛び出し、自分の身体を貫いたのではないかと思った。それに続くように、眼球を通さず、直接網膜を攻められているような不快な感触。足がふらつき、その場に崩れ落ちるまで時間はかからなかった。

 

「そうか・・・それは辛いな・・・」

「・・・まさか、こんなことになるとはな。未だに信じられないよ、ノア」

 この声でユウが意識を取り戻したとき、また別の部屋に移動していた。木彫りの美しい棚には、魔法書や文献がぎっしり並べられ、床にもかなりの量の本が積まれている。机には開かれたままの本と羽ペンがのっていた。机の前にある応接用の低いテーブルには、ふたりの人物が座っていた。

一方は先ほど見た、えんじのローブを着た男性。後半の台詞の主だったが、ドーガに見せた微笑はすっかり消えうせ、唇をかたく引き結んでいる。

そしてもう一方は、紫がかった銀髪に碧眼の、やけに血色が悪い男性。彼が伝説の大魔道師ノアと思われるが、ユウが驚くほど若かった。おそらく、二十歳になるかならないかくらいだろう。彼らの緊迫した表情が、ピンとはりつめた空気と雰囲気を作り出し、ユウも幾分かの緊張を強いられた。そしてふたりの目の前には、ジッタが入れたらしい紅茶のカップが置かれていて、ゆらゆらとした湯気を立ちのぼらせている。まるで、この場の緊迫した空気を少しでも和らげようとするかのように。

 一体、何の話をしてるんだろう?ユウがそう思ったとき、男性のほうがさきに口を開いた。落ち着きなく机を指でカタカタ叩きながら、

「光の氾濫のときもあの騎士のときも、私も心の隅で他人事のように思っていた。どうなるかは当事者次第でしかないと・・・だから客観的にものを見ることが出来たのかもしれない。だが今は別だ」

「そうなってもおかしくない。自分に近しい者が関わることが分かって冷静でいられる者は人であろうとなかろうと皆無だろう。ぼくだってまだ信じられないのだからな。まさか、あの子が・・・」

「結局のところは、自分に出来ることを考えるしかないのだろうな・・・だが、今回は私に何が出来るのか・・・」

 男性の言葉に、ノアは無言のまま考えていたが、少しして顔を上げた。

「太古の封印呪法を使ってもいいか?」

 これには男性のほうが驚いた。

「おい・・・あの呪法を使うというのか?術者の寿命を大幅に削るという陥穽を、おまえは・・・」

「知っているさ、だから使うんだ。おまえもぼくも、『未来に起こるかもしれない、闇の氾濫を防ぎたい』という考えは一致している。それに・・・」

 ここまで言いかけたところで、ノアは激しく咳き込んだ。喉から生ぬるい塊が込みあがり、彼は激しい咳と共にそれを吐き出す。受け止めた掌から、赤いものがしたたり落ちてテーブルに染みを作った。

「ノア!?」

 手を伸ばす男性を制し、ノアは口をぬぐった。お茶を啜って気持ちを落ち着けると、

「ぼくにはもう時間がない。ほかの手段を模索する前に、おそらく時間切れになってしまうだろうよ。・・・こうなることは、大分前から分かりきっていたんだ。それが、ほんのちょっと早まるだけさ。あの子たちを置いていくのは悪いと思っているが・・・」

「ノア・・・すまない・・・」

 男性は深く頭を下げた。

「礼には及ばないよ、バハムート」

 ノアは、強い決意をたたえた瞳で、男性――バハムートをまっすぐに見た。

 

「ノアさま、失礼します」

 扉が開き、小さなビンを持ったジッタが入ってくると、ベッドに横たわったノアはそっと身を起こした。その身体は骸骨のように痩せ細り、肌はカサカサに乾いている。銀髪は艶を失い、白髪同然。まだ十九歳というのが、最早自分でも信じられなくなっていた。時が過ぎるのがやたら遅く感じられる。

「ジッタ、薬を持ってきてくれたのかい?ありがとう」

 ノアは微笑んでビンを受け取り、中身を一口飲んで見せた。新鮮な薬草の香りが口中に広がる。ノアが床についてからというもの、ジッタたち三人は、懸命に看病していた。病気に効くという薬草を摘みに行き、消化によい食べ物を作り、館中の白魔法の書や医学書を漁るように読み、少しでもノアの病状がよくなるように努めていた。その様子に、ノアは罪悪感すら感じていた。もうすぐ死ぬ身にはどんな薬も魔法も無駄なことだというのに・・・それでも笑みを崩さず、

「ありがとう、ジッタ。わざわざ岬のほうまで行ってきてくれたんだね」

「え?どうしてそんなことを・・・」

 ノアは、ジッタの服を指した。膝や靴に、葉っぱのかけらがついている。

「その服についている葉っぱの木は、岬にしか生えていないものだからね。気持ちは嬉しいけど、あそこは危ないから行くなと言ったはずだけど?」

「ご、ごめんなさい!ノアさまに早く元気になってもらいたくて・・・」

 ジッタは謝ったが、ノアは彼の頭を優しくなでた。

「怒ってないよ。もう行かないと約束してくれたらそれでいいから、顔を上げて。ぼくも元気になれるように頑張るから、ね?」

「約束します。だから、ノアさまも元気になるって約束してください!」

 ノアは微笑んで、ジッタが差し出した小指に、自分のそれを絡めた。

 

 ジッタが出て行くと、ノアは脱力したようにベッドに倒れこんだ。正直、口をきくのも笑って見せるのも辛い。それでも、弟子たちの心遣いは嬉しかった。

「みんな、いい子たちばかり。ぼくは幸せ者だ。ぼくがいなくなっても、あの子たちは自分の生き方を見つけてくれる・・・そう信じたいけど」

 ノアはのろのろと起き上がり、窓から外を見下ろした。カゴを下げたドーガたち三人が出かけるところだった。また、薬草を摘みに行くのだろう。

ドーガ、ウネ、ジッタは三人でひとつ。この中の誰かひとり欠けてもいけない。太陽と星と月が、必要以上に出張ったりせずにそれぞれの役目を果たしながら共存するのと同じようなものだ。

「ぼくは、みんな大好きだ。だからこそ、ずっと仲良しでいてほしい。ジッタ・・・きみが、魔王ザンデにならなければ、闇の氾濫を起こさなければ、それでいいんだよ・・・」

 ノアの言葉が終わった瞬間、まわりの景色が、ノアもろとも音を立てて崩壊し始めた。と、どこからか強風が吹き込み、

「うわ!」

 吹き飛ばされないようユウが慌てて身を屈めたとき、また誰かの声が聞こえてきた。

 

 あなたは、この世にただひとりの、特別な存在なのです。

 あなたは、誰にもないあなただけの力を持っています。

 あなたには、世界を変える権利があるのです。

 そうでしょう?魔王ザンデさま・・・。

 

 夢は、ここで終わった。