水をうったように静まり返った塔の中を、ユウは足音をたてぬよう歩いていた。昼とは打って変わって、剣をうちならす音も魔法の詠唱をする声も大砲の音も兵士の声も聞こえてこない。皆、戦い疲れて泥のように眠りこけているのかもしれないが、朝になればまた長い長い一日が待ち構えているのだ。今の彼らは兵士という肩書きだけを与えられた、望まぬ戦を強いられた奴隷だ。それは、いつ終わるかしれない「生き地獄」に等しい。
 ユウもまた、ひんやり冷たい闇と静寂に包まれた廊下を歩いていると、このまま出口に着くことはないのではないか、気づかぬ間にどこかの異空間に迷い込んでしまいそうな、そんな錯覚さえ覚えてしまっていた。
 壁には、風景画や動物を模した小さな彫刻などが飾られていたが、それらが今にも自分に襲い掛かってきそうな錯覚さえ覚えてしまう。正直なところ、なぜこんなことをしているのかという疑問と、部屋に逃げ帰りたい気持ちで一杯だったが、光の戦士としての使命がそれを押しとどめていた。カズスのときと違って仲間がいないのに気絶などしてる場合ではない。・・・といっても、こればかりは予防のしようがないが。
 カトルから、塔の大体の間取りは聞いていた。この廊下を歩いていくと書庫につくはずだ。今の時間帯に誰かいるとは思えないから鉢合わせになる心配はないだろうし、ささいなことでも情報は必要だ。
 ユウは、黒いカシでできた扉を慎重に開けた。油はさしてあるようで、きしむ音はたてなかった。書庫の規模を確認し、思ったほど広くなかったことに安堵する。これなら、目的の本探しにさほど時間はかからないだろう。
 一番近くにある本棚におさまっている本の題名をざっと見る。上の段は画集、真ん中の段は歴史書、下の段は哲学の本でまとめられている。ここを掃除する人間はよほど几帳面なようだ。ユウは少し考えて、一番新しいと思われるサロニアの歴史書を取り上げ、パラパラとめくった。
「ん・・・?」
 ユウの目が、「竜騎士伝説」の項目に吸い込まれるように止まる。厳密に言えば、その中にあった「怪鳥ガルーダ」の文字に止まったのだった。必然的に、ギガメスの影のことを連想した。もっとよく見ようとしたとき、廊下を歩く足音が聞こえてきた。その音は、どんどん大きくなってくる。
「――!」
 ユウは本を抱えたままとっさに一番高い書棚の上にあがり、腹ばいになった。ここなら、下から見つかることはまずない。ほこりが入らないように鼻と口を手で覆ったとき、ガチャリと扉が開く音がした。足音はそのまま部屋の真ん中まで移動する。豊かな黒髪が一瞬なびいた。侍女のヒルデだった。
 部屋の中央にじっと立ち尽くしているのを見ると、本を読みに来たというわけではないようだ。と、また扉が開き、長く伸びた影がヒルデに近づく。
「カトルさま――!」
 嬉々としたヒルデの言葉通り、入ってきたのは兵士長のカトルだった。鎧を脱ぎ、剣もさしていない。
 ユウは、ふたりがここで会う理由を考えてみた。相手が西軍の人間なら、こっそり情報交換をする(実際カトルは西軍の情報を得ていた)、或いは金か何かと引き換えに自分側の情報を横流しするということも考えられたが。
 このふたり、しょっちゅう塔で顔を合わせているだろうに、こんなところで人目を避けるように会うということは・・・逢い引きだろうか?
 ユウがそんなことを考えている間にも、ふたりの会話は続いていた。
「遅くなってすまない、ヒルデ」
「いいえ、わたしも今来たばかりですわ」
 あの無表情な侍女と同一人物とは思えないくらい、ヒルデは嬉しそうな顔をしていた。
「お怪我の具合はいかがですか?カトルさま」
「ああ、大分楽になった。明日には包帯を取っていいそうだ」
「そうですか・・・では、治ったらまた戦に行ってしまうんですね・・・」
 ヒルデは俯いた。
「そのことだが・・・今までは、ムダに死人が出ぬよう、陛下たちを欺きながら戦ってきた。だが、西軍がとうとう本気を出してくるようだ。だから、私たちもそれに応じるしかない。そうなると、早くて一週間以内にケリがつくと思う」
「カトルさま・・・お願いです。無益な戦などやめてください」
「私もそうしたいが、私ひとりがやめてどうなるものでもない。戦に負けてしまえば、ほかの兵士たちもが処刑されてしまう・・・もうあとがないのだよ、わかってくれ」
 ヒルデは、諦めたように手を組み合わせ、
「カトルさま・・・どうか死なないでください。わたしは、カトルさまを・・・」
 ヒルデは途中まで言いかけて口ごもった。カトルは肩に優しく手を置くと、
「私も同じだよ、ヒルデ。今日明日をも知れぬ生命の私がこんなことを言うのはなんだが・・・一日だけでもいい。どうか、私の妻になってはくれないだろうか?」
 ユウは驚いた。その拍子に傍に置いていた本を棚から落としそうになり、慌ててひっつかむ。驚いていたのはヒルデも同じだった。
「わたしは、自分が誰かもわからない人間ですわ。カトルさまには、わたしなどより、もっとふさわしい方がいると思います」
 カトルは首を振り、ヒルデの髪をなでながら、
「そんなものは関係ない。私にはヒルデという女性が必要なんだ。ほかの誰でもない、きみが・・・」
 ヒルデは、しばらくの間無言でいたが、やがて意を決したように顔を上げると、
「カトルさま・・・わたしでよろしければ・・・」
「ありがとう、ヒルデ・・・」
 ふたつの影が急接近して密着したところで、ユウは目を閉じることにした。自分にはそんな趣味はない。

「おい、そこにいるんだろう?もういいから出てこいよ」
 しばらくして、カトルの声でユウは目を開けた。いつの間にかウトウトしていたらしい。見ると、カトルがこちらに目を向けていて、ヒルデの姿はなかった。
 ばれていたなら仕方ない。ユウは本を抱えて棚から下りた。
「悪い、覗き見るつもりはなかったんだが・・・」
「わかってる。サロニアのことを調べに来たんだろう?邪魔したのはこっちのほうだ」
 と言って、カトルは近くの本棚から一冊の本を取り出した。
「これも持っていけ。主にサロニア創世記のことについて書かれた本で、サロニア国民のいわば教科書みたいなものだな」
 ユウは本を受け取ると礼を言った。同時に、さきほどのカトルとヒルデの会話を思い出して、
「さっき、ヒルデは自分のことを『自分のことがわからない』と言っていたな。もしかして記憶喪失なのか?興味本位で訊くようでなんだが、仲間に同じヤツがいてな・・・」
 メグのことを思い出しながらためしに訊いてみた。カトルは頷き、
「ああ、彼女は去年、内紛が始まってからここに来た。人づてに聞いたのでよく知らないのだが、身内を処刑されたのが原因で記憶をなくしたらしい。本当なら彼女も処刑されるはずだったのだが、哀れに思った使用人の誰かがこっそりここまで連れてきたらしいのだ。城には牢で自決したという報告を入れておいたが・・・」
「ヒルデというのは、本名か?」
「いや、彼女を連れてきた使用人が名づけたのだ。身元を証明するものは持っていなかったからな。ついでに言うと、調べてもわからなかったから、この国の人間ではないようだ。今の状況で、他国の人間の身元をいちいち調べるようなことはしないからな」
 ここまで聞いたとき、ユウはあることを思い出していた。もしかしたら・・・。
「・・・まあ、そういうわけだ。私とヒルデのこと、絶対他言はするなよ。必要なときは私から皆に言うから」
「わかった、誰にも言わない」

 ユウは二冊の本を抱えて部屋への道のりを急いでいた。予想外の出来事のせいでかなり遅くなってしまった。早いところ本に目を通しておかないと、翌日寝過ごしてしまいそうだ。
 あのふたりのためにも、早くこの戦を終わらせたほうがいい。時間はあまり残されてはいないので、急ぐ必要がある。本の中に手掛かりがあればいいが・・・。
「一日だけの夫婦になんてさせない・・・」
 ユウはサロニアを救う決意を新たにして、部屋のドアを開けようとした。とそのとき、横からヒュッという音が聞こえてきて、
「!」
 とっさに本を盾にすると、音の正体がタンという軽い衝撃とともに本に突き刺さる。それは、小さなナイフだった。反応するのがもう少し遅ければ、まともに首を貫かれていただろう。間髪をいれずまたナイフが三本、続けて飛んでくる。ユウは床を転がってかわした。不思議なことに、ユウがかわした瞬間、ナイフは宙にとけるように消えてしまった。
「誰だ!」
 闇の中から、ゆっくりと現れたのは赤い服の男だった。右手に数本のナイフをカードのように持ち、みせびらかすように掲げている。顔は隠れて見えないが、漂わせる気配は常軌を逸していた。どうやら、カトルが言っていた二人組の片割れのようだ。ユウは用心しながら立ち上がった。
「傭兵ユージン・マックスウェル・・・いや、光の戦士ユウ。余計な詮索はやめておいたほうがいいですよ?言っておきますが、今のは警告です。二度目はないと思ってください」
 自分の正体を見破られていることに驚いた。
「おれの名を知っているということは、貴様は、ザンデの・・・いや、もしかしてガルーダの手下か!?」
 男は笑った。いや、顔は見えないのだが、まわりの空気の揺らぎ具合で、笑ったように見えた。
「資格のない貴様に、ガルーダさまは倒せませんよ」
「なんだと?資格とはなんなんだ!?」
「・・・喋りすぎだぞ」
 唐突に背後から聞こえてきた声と、背中に何か固いものが触れた感触にギョッとして振り返る。そこにはいつの間にか青い服をまとった男が立っていた。長剣をさかしまに持ち、柄をユウに突きつけていたのだ。酷似した容姿からすると、彼が赤い服の男の相棒らしい。気配をまるで感じられなかったことに、ユウの背中に冷たいものが走った。
「じゃ、これ以上喋らないようにとっとと帰りましょうか」
「そうしろ。ヘキナさまもいらっしゃることだしな」
 ユウは、二人組に疑問をぶつけたかった。ヘキナとは誰だ?ガルーダを倒す資格とはいったい?だが、喉の奥で声がこわばり、何かでせき止められたように一言も発することができなかった。そうしている間に、二人組の姿は忽然と消えていた。
「・・・くそっ!」
 数分してからやっと声が出てきた。部屋に入り、苛立ちをぶつけるようにドアを思い切り閉めると、切れ目が入ってしまった本を乱暴に捲り始めた。