壁と窓の代金を弁償したたあと、

「大事な話があるなら、うちの部屋を使っていいよ」

という酒場の女主人の好意で、ジョー、メグ、茶色の髪の少年は店の二階の部屋に案内してもらった。二階は自宅のようで、少し散らかっていたが気になるほどではない。三人が食卓についてすぐ、主人がサンドイッチの大皿と紅茶の盆を運んできた。

「これはさっきのお礼だよ。お代わりが欲しかったら言いな」

「じゃ、遠慮なく」

 正に遠慮なく、ジョーは早速両手に持ったサンドイッチに生肉に食らいつく獣の如き勢いでかぶりついた。メグがその食べっぷりに唖然としている間に、ジョーの手は三切れ目のサンドイッチをつかんでいた。口をモゴモゴ言わせながら、

「・・・正直、タダって気はしないがな・・・ん、どうしたおまえら?食わないのか?」

「わ、わたしはいい。ねえ、あなたも食べたら?」

 メグは、隣席で無言のまま俯いている少年に声をかけた。

「あ、はい・・・」

 少年はゆっくりと顔を上げた。唇は切れ、こけた頬は赤いアザになっている。驚くメグに、ジョーは食べる手を休めず、

「あ、忘れてた。そいつな、あの野郎たちに殴られてたんだよ」

「それを先に言って!大丈夫?」

 メグは少年にケアルの魔法を施した。

「あ、ありがとうございます・・・」

 少年は伏し目がちで礼を言っている間に、大皿の中身は半分にまで減っていた。次のサンドイッチを取ろうとしたジョーの手をぴしゃりと叩き、メグは大皿を取り上げた。

「なんだよ、さっきはいらないって言ったじゃねえか!」

「もうだめ、独り占めしないの!・・・気にしないで食べて」

 メグは、大皿を少年の前に置いた。少年はためらいがちに一切れ取り上げたが、なかなか口に運ぼうとしない。メグとジョーが怪訝な顔で覗きこんだとき、少年の漆黒の瞳からつーっと一筋の涙がこぼれて、テーブルに小さなしみを作った。

「ど、どうしたの!?」

「だ、大丈夫です。嬉しかっただけで・・・」

 少年は涙をぬぐってサンドイッチをゆっくりと食べ始めた。それを見たメグがホッとしてジョーに向き直ると、ジョーは紅茶に角砂糖を三つまとめて放り込んでいた。

「身体に悪いわよ」

「うるせえ、今日は茶一杯しか飲んでないんだ。それに歩きっぱなしに加えて運動したあとだから栄養補給は必要だろうが」

 ジョーは甘い紅茶をガブリと飲むと、

「そういえば、おまえ今まで何やってたんだ?」

「わたしは・・・」

 メグは、飛空艇が撃墜されたあと、サロニア城西の塔で過ごしていたことを話した。抜け道を使って街に出てきたことも。それを聞いた少年が反応し、

「あ、あの・・・兵士の状態はご存知ですか?ひどい目にあってなければいいのですが・・・」

「ごめんなさい、そこまでは・・・あなたの家族か知り合いがいるの?」

「ああ、こいつなんでもサロニア城の王子さまだそうだ」

 少年が答えるより前に、ジョーがさらっと言った。

「えっ!?じゃああなたが、追放されたって言う・・・」

「はい。僕の名はアルス・レストー。現サロニア国王ゴーン八十四世の息子です」

 メグはまた驚いて少年を見た。粗末な布の服を着ているが、全身から漂う気品と上品な顔立ちは隠しきれるものではない。黒い双眸には濁りがなく、ふとした仕種が優美さを兼ね備えていた。年は十歳くらいだろうか。首から金色の鎖がさがっているが、服に隠れているので、何がついた首飾りかはわからなかった。

 王子アルスが内紛に異を唱えて追放された話はアンから聞いていた。だがその王子が、こんな年端もいかぬ少年だったとは・・・。

「去年の八月末に母上が急病で亡くなりました。父上が変わってしまわれたのはそれからです。ひどく目が冷たくなり、見たときはぞっとしました。兵士たちに内紛を命じたのはそれからまもなくのことです」

「八月、か・・・」

 大陸が浮上した直後ということになる。極論かもしれないが、メグは魔物が絡んでいる可能性を昨日から考えていた。温厚で人望があった王が豹変したというと、アーガスの件と同じだ。厳密に言えば、魔物が乗っ取っていたのは王ではなく神官ハインのほうだったが・・・。

「ねえ、ジョー・・・」

 メグが言いかけると、ジョーは頷いてみせた。

「わかってるよ。アーガスのときと一緒、だろ?」

「うん・・・」

 もしかしたら、ユウもこの国のどこかで同じことを考えているかもしれない、と思っていた。

「それだけではありません。誰かが王政を批判したり、謀反を企てているという噂を聞きつけただけでも捕まえて牢屋に入れたり、見せしめのために処刑したりすることも珍しくなくなりました・・・今日も、ふたり処刑されたようです・・・」

 メグは、図書館広場で見た光景を思い出して口を押さえた。ジョーとアルスが心配そうな顔をしたが、紅茶を啜って気持ちを落ち着けると、

「大丈夫、続けて」

「・・・城を追放されたあとも、僕は父上を止めたい一心で、力を貸してくれる人を捜し続けました。でも、誰も信じてくれる人はなく、逆に詐欺師呼ばわりされる始末で、今日も・・・」

「で、襲われていたところをオレが助けたってわけだ」

 ジョーは鼻の穴を膨らませながら、得意げに言ってみせた。メグはそれを無視して、

「それで、ジョーは飛空艇が落ちてから何やってたの?北東街には行ってないんでしょ?」

「ああ、気がついたら南東街の近くに倒れていたんだ。ほら、でっかい塔が建っているところだ。木にひっかかっていたおかげで、この通り何ともない」

「南東街?あそこに宿屋あったかしら?」

「いえ・・・ないです・・・。あの街にあるのは『竜騎士の塔』だけ・・・」

 アルスが遠慮がちに口を挟んだ。

「ああ、昨日は爺さんのところに世話になったんだ」

「爺さん?」

 メグが訊くと、ジョーは昨日の出来事を話しだした。南東街でユウとメグのことを訊ねて回ったが、何の手掛かりもつかむことはできなかった。最後に立ち寄った食堂でパンを買って店を出たとき、路地裏から悲鳴と怒声が聞こえてきた。行ってみると、ひとりの老人が人相の悪い二人組に身ぐるみをはがされそうになっていたのだ。ためらうことなくジョーは二人組を撃退した。

「それで、爺さんの家に礼代わりに泊めてもらったんだ。で、今日はここの市場で夕方まで一働きしていたんだよ」

「一働きって?」

「日雇いの荷物運びだよ。いつおまえたちと合流できるかわからないから、先立つものがいると思ってな。これが結構いい稼ぎになったぜ。・・・もっとも、さっきので大分使っちまったが・・・」

「それはジョーに原因があるんじゃないの?」

「黙って聞け。で、腹が減ったんで酒場に行った。そうしたら・・・」

「それはもう聞いたわ。あとは、ユウだけど・・・北東街にも行ってないみたいなのよ・・・あと調べていないのは、北西街だけね」

 図書館広場で石を投げられてからすぐに出て行ってしまったので、ここだけ調べていないのだ。と、アルスが、

「あの、メグさん。先程、西の塔に運ばれたとおっしゃいましたね。もしかしたら、ユウさんは東の塔にいるんじゃないでしょうか」

「え?そういえば、その可能性もあるわね・・・」

 メグは納得したように言った。西の塔に収容されたのは自分だけだが、東側はどうだろう。それなら、西側に情報が入らないのも頷ける話だ。といっても、まだ推測の域を出ないが・・・。と、ジョーが窓を見て言った。既に日はとっぷり暮れている。

「おい、城のヤツに、夜までには戻るって言ったんじゃねえのか?北西街のほうはオレが調べといてやるから、おまえは戻れ」

「・・・わかった、明日また来るわ。ジョーは今日どうするの・・・」

 ここまで言って、メグは大事なことを思い出した。北東街でふたりの似顔絵を散々見せていたのだ。もし彼が街に行ったら、お尋ね者と思い込んだ誰かに狙われるかもしれない。それは非常に危険なことだった(狙った側が)。

「ジョー、北東街には行かないほうがいいわ。危ないかもしれないから・・・」

「え、なんで?」

 ジョーが疑問を口にしたとき、アルスが、

「では、僕がお世話になっているじいの家に行きませんか?南東街にあるんですけど、あなたのことも紹介したいし・・・」

「そうか、じゃあそうする。メグ、明日朝、南東街の街門で落ち合おうぜ」

 メグは頷き、立ち上がった。部屋を出ようとして振り向き、何か言おうとしたが、結局は「おやすみ」とだけ言い残し、そのまま酒場を出て行った。

「アルス、オレたちも行くか」

 ジョーとアルスは、酒場の主人に部屋を貸してくれた礼を言うと、南東街に向かった。

 ちなみに、サンドイッチの大皿はきれいに空になっていた。

 

 メグは、南西街に入ったときとは打って変わって弾むような足取りで城への道を急いでいた。ジョーに会えたことと、ユウの居場所の手掛かりをつかめたことで、心は晴れやかだった。

 ジョーに会えたのだから、ユウにもきっと会える――そんな気持ちで城の裏口にある鉄格子の中に入り、もとの大きさに戻ったそのときだった。

 ――おまえに何ができる?この国のために何をしようというのだ?――

 不気味な女の声が頭の中に響いてきた。

「誰っ!?」

弾かれたようにあたりを見回すが、だれもいなかった。

 ――見ただろう。感じただろう。人の醜さを――人と言うのは、自分の欲望や利を満たすことしか考えられない身勝手な生き物でしかないのだ。人が愛することが出来るのはただひとり、自分自身だけなのだ――

 ・・・そんなこと、ない。メグは心の声で必死に抗った。不思議な声はくくっと笑い声をたて、

 ――本当にそう言い切れるのか?おまえの服を見た人間たちの反応を思い出してみるがいい。恐れ、怒り、憎しみ、軽蔑――王に抱くべきこれらの感情を、たまたま身近なところにいたおまえにすべてぶつけたではないか。そういうのを身勝手と言うのではないか?――

 決め付けるそっちのほうが身勝手よ。

 ――それはおまえがそう思い込みたいだけだ。かつておまえを虐げたあの三人組のことを思い出してみろ。ここの住人と大して変わらないではないか――

 違う。違う・・・!

「違うーっ!」

 メグは耳を塞いで叫ぶと、ひたすらに通路を走った。声があたりにわんわん響く。そのあとのことはよく覚えていないが、我に返ったときには部屋のベッドの中にいた。

 

 城の屋根に腰かけていたヘキナは、目を開けると声を殺して笑った。メグが予想通りの反応を示したのが、おかしくてたまらなかったのだ。

「さて、仕事に戻るか・・・」

 ヘキナは音もなくバルコニーに降り立つと、そのまま城の中に入る。彼女の気配を感じてか、机に向かっていたひとりの男が顔を上げた。大臣ギガメスだった。

「ご苦労、このまま作戦を続けるがいい」

「はっ」

 ギガメスが深々と頭を下げる。傍目からするとそれは奇妙な光景だった。

 大臣が頭を下げている相手は、侍女の格好をしていたのだから。