「うっ・・・」
 ジョーが目を覚ましたとき、周りには白いモヤがたちこめていた。べったりとして重苦しい感じのモヤだ。
「ユウッ!どこだ!?」
 いくら見回しても叫んでも、ユウの姿を見つけることはできなかった。先ほどまで対峙していたはずのナイトメアーも同様だ。と、どこからともなく足音が聞こえてきた。モヤの向こうにうっすらと人影が見え、それは少しずつ少しずつ伸びてくる。はっきりと識別することはできないが、足音の主のようだ。
「ユウか!?」
 思わず駆け出そうとして――考えるより先に足が止まっていた。なぜオレは止まったんだと訝しげな表情を作ってから気づいた。ユウにしては体型が大きすぎるのだ。肩から突き出している棒のようなものは、大剣だろうか?
「まさか・・・あいつか?」
 影の正体に見当がつき、ジョーの身体がすくむ。その間にも、影は無言のまま距離を縮めていく。その数秒後には、自分の推測が正しかったことを知った。
「また会えたな、光の戦士・・・」
 それは、ゴールドルの館で会った大男――ティターンだった。
「なんでこんなところにいるんだ!?」
 ジョーの月並みな問いに、ティターンは蔑んだ笑みを見せた。
「能のない質問だな・・・そんなの、決まってるではないか」
 ティターンは剣を引き抜き、ジョーの胸にピタリと押し当てた。ほんの少し身をそらせばいいはずなのに、なぜか身体が凍りついたように動かない。ジョーは大きく見開いた目でティターンを凝視するだけだった。
「おまえに死んでもらうためだ」
 ティターンは、何のためらいもなく、剣を一気に、そして深々とジョーの胸にさし込んだ。傷口から飛び出す血や痛みを確かめる余裕もなく、ジョーの意識は途絶えた。

「うっ・・・」
 ジョーが目を覚ましたとき、傍らにユウが倒れているのが見えた。あたりを見回すが、ナイトメアーの姿はない。空はまだ暗く、真上の月が煌々と輝いている。
「夢・・・だったのか?」
 自分の身体を見回すが、痛みは感じず、ティターンに負わされたはずの刺し傷はどこにも見当たらなかった。それを知ったとたん、急に気が大きくなる。
「・・・何が『目覚めることのない永遠の悪夢』だ。夢は所詮夢でしかねえんだよ・・・あとで百倍返しにしてやる」 今すぐにでもナイトメアーのあとを追いたい衝動に駆られたが、今はユウを起こすのとメグを正気に戻すのが先だ。曲を完奏したときに彼女の生命が尽きるというなら、竪琴を取り上げるなりぶっ壊すなりして、演奏させなければいいことだ。いざとなったら力ずくででも・・・。
 そう決めると、ジョーはユウに近づき、身体をゆすった。
「ユウ、起き・・・」
 最後まで台詞を言うことは出来なかった。突き出された大剣がジョーの肩口にザックリと食い込んでいたのだ。
「うわああっ!」
 今度は悲鳴をあげ、無様にのたうちまわる。肩から血の海が流れ、あっという間に地面を赤く染めあげる。そして、斬った張本人のユウは立ち上がり、大剣についたジョーの血をぺろりとなめた。
「言ったでしょう、『目覚めることのない永遠の悪夢を与える』と」
 ユウはナイトメアーの声で言った。そして、最前自分がつけた肩の傷を、足でぐりぐりと踏みつける。それが刺激になったのか、血がブシュッと噴き出し、ジョーは更に叫び声をあげた。
「うるさいですね」
 ユウはジョーの喉に剣をつきたてた。といっても急所は上手く避け、声を出せないようにしただけだ。声をあげようとすると、沸騰した湯のように血が溢れる。剣はさらに、彼の両膝を貫き、下腹をえぐった。傷口から何かの塊がこぼれおちるが、気にする余裕すら残されてはいなかった。
「おっといけない。このままだと死んでしまいますね、治して差し上げましょう」
 ユウが手をかざすと、ジョーの身体から流れ出たはずの血や臓器がふわりと浮かび上がって傷口の中へ戻り、皮膚も縫合されたかのように修復されていった。ただし、潰された喉と、痛みで消耗した体力はそのままだ。
「が・・・う・・・」
 ジョーは必死に悪態をつこうとしたが、出てくるものは声にならない声と、喉からの血だった。
「ムリに喋ろうとすると傷に障りますよ?次は、肉弾戦でいきましょうかねえ」
 ユウはジョーの左腕をつかむと、力任せに捻じ曲げた。骨の折れる音と肉の潰れる音が混ざりあう。そのまま腕をちぎってしまいそうな勢いだったが、直前でそれは止まった。今は、血管一本だけで辛うじて腕がつながっている状態――というより、ぶら下がっていると言ったほうが正しかった。
 ユウの姿をしたナイトメアーに翻弄されながら、ジョーは唇をかんだ。こんなところで死ぬのか・・・これがただの夢だとしたら目が覚めればそこで終わりだが、痛みも感じてしまうなんて、悪夢としか形容しようがない。いや、悪夢どころじゃないな。
 痛みが消える。もちろんユウが治したからだが、すぐに新たなる苦痛に襲われる。何の攻撃を受けているのか、知りたいとも思わなかった。
 本物のユウはどうなったんだろうか?オレと同じ目に遭っている可能性が高いが、絶対とは言い切れない。あいつのことだから、上手いこと逃れられているかもしれない。だとしたら。
 ――頼む、ヤツを倒してくれ・・・そして、メグを助けてやってくれ・・・オレは、あいつを――
 次の瞬間、ジョーの姿は炎の海に包まれた。

「うっ・・・」
 ユウが目を覚ましたとき、傍らにジョーが倒れているのが見えた。その顔が時折苦しげに歪み、汗が流れ落ちる。
「そ、そんなバカな・・・!」
 声のしたほうを見ると、愕然とした表情のナイトメアーが立っていた。竪琴を抱えていたが、それを奏でる手は止まっていた。ユウは剣をつかんで立ち上がり、
「よくも眠らせてくれたな・・・たっぷり礼をしてやるぜ!」
 ナイトメアーはあせったように竪琴を持ち直すと、再び先ほどの旋律を奏で始めた。だが、ユウの身には何の異変も起こらなかった。
「何が原因かはわからないが、おれにはそいつは効かないようだ。諦めるんだな」
「なぜだ・・・!?悪夢の歌からは逃れられないはずなのに・・・そ、そうか!く、くく、くはははあ・・・!」
 ナイトメアーはユウを見ると、大声で笑い始めた。おかしくてたまらないといった反面、どこか自嘲めいたものもある笑声だ。
「何がおかしい」
「そうですか、あなたは人でも獣でもない存在なのですね。だから私の歌が効かなかった・・・この件に関しては、対処を考えていなかった私の負けです。仕方ない、私の流儀ではないですが、あなただけには直接引導を渡してやりましょう!」
 だが、ユウの耳にその言葉は入らなかった。「人でも獣でもない存在」という言葉に激しく動揺していたためだった。だが、考えているヒマはなかった。ナイトメアーの竪琴の弦が勢いよく伸び、生き物のように襲い掛かってくる。
「くっ!」
 ユウは身体をひねり、跳躍し、地にふせてかわす。立ち上がったとたんにまた一本が接近してきたが、バック転でギリギリよけた。弦が地面をムチのように叩き、風圧はユウの腕に髪の毛ほどの傷を作る。が、それに気を止めることもなく、飛ぶ際、着地地点に放り投げておいた剣を蹴り上げると、しっかり受け止めて構えた。
「なかなかやりますね」
 感心した口調のナイトメアー。弦はすべて竪琴におさまっていた。
「寝起きの準備運動にはちょうどよかったよ」
 余裕の笑みを見せつけるユウ。上空を見ると、既に月は西に傾いていた。今の季節からすると、夜明けまであと二時間弱といったところか。ここであまり時間をかけるわけにもいかない。
 ――落ち着け、こういうときこそ冷静になるんだ――
 ユウは肩をわずかに上下させながら、眼前の敵を見据えた。あいつの歌はおれには効かない。厄介なのはあの竪琴の弦だが・・・まずはあれを狙うべきか・・・。
 弦が再び肉薄してきた。
 ダスター村。住人たちは皆、眠りについていた――数人を残して。
 歌姫リリーナは、地主に壊された竪琴を何とか修復しようと試みていた。折れた胴をくっつけてみたものの、それで元通りの音が出せるわけもない。
「もう・・・歌えない・・・」
 幼いころから母の竪琴を使ってきたリリーナにとって、もはやこれは自分の半身といってもよかった。自分が歌姫と呼ばれるまでに成長できたのも、この竪琴があったからこそ。ほかのものを使う気には到底なれない。それに加えて、地主の言い放った言葉が脳裏から離れないでいた。デュオの演奏と歌は自分のそれとは比べものにならない、それは自分でも認めているのだが・・・。
 リリーナは、競演会が終わった直後、デュオに頼みこんだことがあった。
「あなたの演奏で歌ってみたい」
 だが、にべもなく断られてしまった。「あなたの声を聞くと悲しくなる。正常な状態で演奏することなどできやしない」というのが答えだった。意味を訊ねることは怖くて出来ずじまいだった。
 いっそ、歌をやめて村からも出て行くか――そう考えたとき、扉を叩く音が聞こえた。最初は無視していたが、音は激しさを増すばかりだ。どうやら、出てくるまで粘る所存らしい。リリーナは苛立ちをぶつけるように乱暴に扉を開いた。
「何よ、うるさいわね!」
 そこに立っていたのはセキト老人だった。
 宿の一室。メグはひたすら竪琴を奏でていた。ユウに止められたときと比べると、顔からさらに血の気が引き、目はうつろで、竪琴を見ているのかいないのかわからない。失敗した悔しさで思わず噛んだ唇は口紅ではない別の赤いもので染まっている。指は紫と赤でいろどられ、竪琴の弦もところどころ赤く染められていた。ナイトメアー作曲「死神の囁き」は、あと二小節で終わろうとしていた。今のところミスはない。今、一番難関のところまで来ている。高らかになだれ込み、心をかき乱すような旋律だ。だが、ここも無事に通過することができた。
「あと少し・・・」
メグの唇の端に、笑みらしいものが浮かぶ。と、指先に激痛が走り、
「痛っ!」
 思わず竪琴を落としてしまった。酷使に耐えられなくなった指が悲鳴を上げたのだ。皮膚はとっくの昔にぐちゃぐちゃで、普通ならものを持つことも困難だろう。
「な、なんでこんなときに・・・!こ、今度こそ!」
それでもメグは竪琴を拾い上げ、また演奏を始めようとしたときだった。どこからともなく甘い歌声と旋律が聞こえてきたのだ。それは、優しい子守唄。とても温かな・・・。
 メグの手から、拾ったばかりの竪琴が音をたてて滑り落ちた。そしてそのまま、メグの意識は暗く深いところへ沈んでいった。