翌朝。いつもより早く目を覚ましたメグは、罪悪感を抱いたまま朝食の支度をしていた。
「なんで、あんなこと言っちゃったんだろう・・・」
 昨夜の残り物のスープを火にかけたあと、オムレツ用の刻み野菜と卵を混ぜ合わせながらメグは呟いた。冗談めかして言ったものだとわかってはいるのだが、ジョーの言葉を聞いて、なぜか感情的になってしまったのだ。昨日のことを繰り返し思い出しながらも、料理をする手は休まずに動いていた。ふつふつと煮立ったスープ鍋からいい香りの湯気が立ちのぼる。と、扉が開いてユウが入ってきた。
「いい匂いだな」
「あ、ユウ、おはよう・・・ごめんね、勝手なことして。何だか目が覚めちゃったから・・・」
 本来なら、今日の食事当番はユウだったのだ。
「いや・・・楽出来たからいいよ。何か手伝おうか?」
「ありがとう。じゃあ、お皿を出してくれる?あと、サラダもお願い」
「わかった」
 熱したフライパンに卵を流し込みながら頼むと、ユウは快諾して用意をし始めた。サラダ用の野菜を手際よく切って盛り付けるだけですむので、まず失敗することはない。
「あの・・・ジョーは何してる?」
 食器を並べるユウに、メグは訊ねた。いつの間にか手が止まっていたことにも気づかなかった。
「まだ寝てたよ。飯の匂いでも嗅がせたら即効起きるだろうがな」
「昨夜、怒ってなかった?」
 メグは後ろを向き、肝心のことをおそるおそる訊いてみた。ユウはドレッシングをかけながら、
「別に。おまえが怒鳴ったときはそりゃ驚いていたが、しばらくしたらケロっとしていたぞ」
 それを聞いて、メグはほっとした。
「一応、謝っておいたほうがいいかな・・・?」
「いや、それはやめておいたほうがいい。あまり必要以上に掘り返しすぎると、かえってあいつを不愉快にさせるだけだし、向こうだっておまえの気持ちはわかってるはずだよ」
 メグは俯いてエプロンの裾をつまんだ。
「・・・それでいいの?」
 ユウは頷いて、
「ああ。だからさ、おまえはいつも通り普通に接していればいいんだよ。それだけだ」
「う、うん・・・わかった、そうする」
 メグがそこまで言ったとき、ユウの鼻がひくひくと動いた。
「・・・?おい、何か焦げ臭くないか?」
「え?・・・ああっ!」
 ユウとメグはほぼ同時に同じ方向を見た。時既に遅く、フライパンから黒い煙がブスブスと上がっていた・・・。
 ――それからしばらくして、ふたりはジョーに説教という名の嫌味を延々聞かされることになった。

 それから十日後の夕方。飛空艇はダスター島の海岸に着水した。孤島の中にある村というより、孤島全体が村になっているという印象だった。家屋はあるが、それ以外のところには人間の手はほとんど加えられていない。自然と共存しているという意味では、古代人の村と似通うものがあった。
「緑がきれいね」
 飛空艇を降りて、まっさきに口を開いたのはメグだった。小さなつぼみで彩られた青々とした木々が、あたり一面に広がっている。この森の中を歩いていけば、村に着くとレプリトの長老に聞いていたのだ。ジョーは大きく伸びをしながら、
「森林浴にはちょうどいいな、十日も飛空艇に閉じこもっていたから身体がなまっちまったよ。なあユウ、村に行く前に魔物狩りでもしねえか?カンを取り戻したいんだ」
「そんなヒマあるか。さっさと行くぞ」
「ちぇっ・・・そもそも遠回りなんてするから、余計に日にちがかかったんじゃないかよ・・・」
「用心してし過ぎってことはないだろ。ノーチラスに衝突して飛空艇が粉々にでもなったら意味ないからな」
 わざわざ遠回りしてダスターに向かったのには理由があった。レプリトからまっすぐダスター島に行くためには、南東に向かう必要があった。ただし、その進路では巨大国家と呼ばれるサロニア国の上空を通過ることになる。
「悪いことは言わん。サロニアの近くは避けたほうがいいぞ」
 レプリトの長老の話によると、サロニアには世界最速と謳われる飛空艇ノーチラスがあり、最近飛んでいるのをよく見かけるのだという。
「もしかしたら、魔物が活発化してきているのであたりを偵察しているのかもしれないが・・・下手すればお主らの飛空艇と衝突する恐れもある。世界最速というくらいだから、気づいて避けようとしたときには手遅れになるかもしれんのう・・・」
 最後には脅すような口調で言われてしまったので、ユウたちは安全を重視し、できるだけサロニアを避ける進路を選んだ。まずレプリトから東へ直進し、まわりに海しか見えなくなったら、南に進んだのだった。
「――着いたらまず何をする?」
 森の中に作られた道を歩きながら、ジョーがユウに訊いた。
「そうだな、とりあえずは宿の確保だ。幻獣のことを調べるのはそれからだ」
 ユウが答えたとき、少し離れたところからざわめきの声が聞こえたかと思うと、すぐに静かになった。
「なんだ?」
 近づこうとしたとき、今度は澄んだ竪琴の音が聞こえてきた。どこか物悲しい旋律だった。
 音がしたのは、森の中にある泉のほうだった。まわりにはダスターの住人と思われる者たちが集まっている。人々の注目を集めていたのは、泉の前に腰掛けたひとりの若い男性と、男性の手にある竪琴だった。
「男・・・だよな、あいつ?」
 ジョーがそっと言った。華奢で伸びやかな体型、白い肌、鮮やかな真紅の双眸、品のある顔立ち。背中までのばした銀髪。女性だと言われたら信じてしまいそうなくらい、彼は完璧な容姿だった。白でまとめた衣装が、その清楚さを強調している。
 演奏がやんだ。が、身動きする者は皆無で、咳の音ひとつ聞こえない。と、男の細い指が再び動き、弦を操り始めた。先ほどとは違う甘い旋律が流れるとともに、形のいい唇が開く。歌詞はユウたちには理解できない言葉でつむがれていたが、それでも心と耳は惹きつけられたまま離れることはなかった。
「・・・おっと」
 ユウはわれに返った。いつまでもこうしているわけにはいかない。ジョーをつっつき、「行くぞ」と言うように村の方向を指した。だが、メグはその場につなぎとめられたように動こうとしなかった。目は男に、耳は男の歌声と演奏に完全に向いてしまっているようだ。その表情は陶然としている。
「仕方ないな・・・」
 「宿で待つ」と書いた紙切れをメグの衣装のポケットに入れておき、ユウとジョーは村に向かった。

「あんたたちもデュオの歌を聴いた?」
 ユウが宿帳に名前を書いていたとき、果物をつめたカゴを抱えた中年女性に話しかけられた。宿の主人の話によると、彼女は村一番の地主とのことだった。畑でとれた作物を、こうして宿に運んできてくれるのだという。
「デュオ?あの吟遊詩人のこと?」
「ああ。去年ここで開催された競演会で優勝したんだけどね、とにかくいい声なんだよ。デュオの声を聴きたいってんで、演奏会が始まると、ほとんどの人が行っちゃって・・・うちの旦那も仕事ほっぽり出してるくらいなんだよ。仕方ないから、私が行くのをガマンして働いてるわけ」
「え?デュオって、ここに住んでるんじゃないのか?」
「去年の大会のあとすぐに出ていったけど、二月くらい前にひょっこり来たの。それからずっとここに滞在中。まあ、みんな彼の歌は好きだからいいんだけどね・・・」
 確かに、彼の歌には人をひきつけるものがある。だがユウには気にかかることがあった。それはデュオの目だ。あまりにも鮮やか過ぎて、美しさを通り越して一種の妖しさすら感じてしまったのだ。それに・・・あの歌をずっと聴いていると、ただひきつけられるだけでなく引き込まれてしまうような気もしていた。それがいい意味なのか悪い意味なのかは自分でも分らないが・・・。
 ユウがここまで考えたとき、扉が開いてジョーが入ってきた。脇に本を抱えている。
「おい、吟遊詩人のことが書かれた本があったから買ってきたぞ」
「ありがとう。メグはまだ戻ってないのか?」
 ユウが訊くと、ジョーは顔をしかめ、
「演奏会は終わったみたいで、村人たちがぞろぞろ戻ってきているが・・・ぱっと見た限り、あいつは見てない」
「いったい何やってんだ、あいつ・・・?迎えに行くか?」
 と、ユウが怪訝そうな顔で言ったとき、扉が開いて当のメグが入ってきた。荷物袋が、最前見たときより少し大きくなったように見える。
「遅かったじゃないか、どこで道草食ってたんだ?」
 ジョーが責めるように訊くと、メグは慌てたように、
「ご、ごめん・・・ちょっと買い物に行ってたの」
「だったら、先にこっちに来てからにしろよ。それからでも別に遅くないだろうが・・・」
「おいジョー、そのくらいにしておけ。ほら、部屋に行こう」
 まだ文句を言いたそうなジョーをなだめ、ユウは階段に向かった。

「えっ、同じ部屋で寝るの?」
 四人部屋に通されたメグは、驚いたように言った。街の宿に泊まるより飛空艇の船室で過ごすことが多かったので、別々の部屋で寝るのが当たり前のようになってきていたのだ。しかも、長期間需要がなかったところを大急ぎで掃除したらしく、埃くささがまだ残っている。
「二人部屋と個室は高かったんだよ。集団の客はめったにいないし、掃除が完全じゃないから格安にしてやると言われたら・・・なあ?」
「オレたちへの遠まわしな拒絶か?嫌なら廊下で寝てもいいんだぞ」
 まだ機嫌が直っていないジョーが言い放った。
「そういう意味で言ったんじゃないわよ・・・あ、そうだ」
 メグは部屋を出て行くと、しばらくして戻ってきた。主人に頼んで用意してもらったのか、白い衝立をひきずるように運んできている。そしてそれを、窓際のベッドの横に置いた。これで、衝立の向こうは完全に見えなくなる。
「ここから先は入らないでね」
「頼まれたって入るかよ!」
 ユウは苦笑しながらふたりのやりとりを眺めていた。

 夕食をとるために、ユウたちは食堂に入った・・・が、メグはなぜかそわそわしていて落ち着きがなかった。席についても、しきりに階段のほうをチラチラ見ている。早く部屋に戻りたくて仕方がない、というように見えた。
 見かねたユウがたしなめようとしたとき、メグの頼んだ料理が運ばれてきた。外で食事を取るときは、とくに献立が決められていない限り、三人が三人とも自分の好きなものを頼むようになっていたので、誰かが時間のかかる料理を頼んでしまったときは、ほかのふたりが冷めかけの料理を口にすることもあった。だがこのときは、
「ねえ・・・先に食べていい?」
 珍しく、そんなことを言い出した。ジョーは怪訝な顔をしたが、
「別に構わないけど」
 とユウが答えると、ホッとしたようにスープに手をつけ始めた。直後にユウとジョーの料理が運ばれてくる。
 柔らかい鹿肉にナイフを入れながら、ユウがメグを見ると、いつになく急いで食事を進めていた。普段は早く食べるジョーを注意する側なのだが。
「ごちそうさま。先に部屋に戻るわ」
 ユウがそんなことを考えている間に、メグは席を立ち、椅子を元の位置に戻すこともせずに食堂を出て行った。
「ジョー・・・あいつ、いつもと違って見えないか?何ていうか・・・心ここにあらずって感じで」
「そうか?デュオってヤツの演奏のせいでボケッとしているだけじゃないのか?」
 ジョーは気にもとめていない様子だったが、ユウの心の中には、拭いようのない違和感が残っていた。

 メグは部屋に戻った。食事中に主人がちゃんと掃除してくれたのか埃くささはなくなり、換気も済んだらしく空気も綺麗になっていた。
 ベッドに腰掛けると、メグは荷物袋を取り上げ、プレゼントの箱を開けるときのような、ウキウキした気分で紐を解いた。
 目当てのものは、先ほどと変わらずそこにあった。なくなっていたら大変だ。
 袋の中には、デュオからもらった竪琴が収まっていたのだ。
「こう・・・だったかな・・・」
 メグは、壊れ物に触れるかのようにそっと弦に触れた。やがて――たどたどしいながらも、宝石の原石のような旋律が空間に広がり始め、音の滝が部屋に流れ込んでいった。