四月中旬、ウルの村。
 この日、トパパとニーナは、主のいない誕生日をひっそりと祝っていた。主というのはユウのことだ。
「もう、一年経つんですね」
 ニーナの言葉に、トパパは無言で頷いた。一年前の今日は、家族全員揃ってユウの誕生日祝いを開いていた。それは毎年欠かさず続けていたことだった。
 だが、今は主役のユウはいない。祝いを盛り上げる役のジョーも、はしゃぎすぎる彼を止める役のメグもいない。三人がいない家は、火が消えたように静かだ。空気もなんだか冷たく感じてしまう。
 ふたりは去年の宴を思い出す。十七歳の誕生日祝いに特別にあつらえてもらった甲冑を贈った。ニーナは前日から時間をかけて特製の料理を作り、メグが初めてひとりで焼いたパイ菓子は少し焦げてしまったが、かえって香ばしくていいと好評だった。顔を少し赤らめながら、「ジョーの誕生日のときには、失敗しないようにする」とメグは言っていた。酔いつぶれたトパパを部屋まで送る途中、ニーナはこの平凡で幸せな生活がずっと続くものと思っていた。翌日、ダーンからあの言葉を聞かされるまでは。
 一年しか経っていないことが信じられない。まるで、何十年も過ぎてしまったかのような感覚さえ覚えてしまう。この家は、こんなにも広かっただろうか。
 ニーナはふと、飾り戸棚に目をやった。視線の先には、やや古びたウサギのぬいぐるみが鎮座している。メグが家に来たばかりのころ、自分で作ってプレゼントしたものだった。
 十年前、トパパがずぶ濡れの少女を抱えて帰ってきたとき、驚きの感情は生まれなかった。当時真っ先に思ったことといえば、「また新しい家族が増える」だった。子供を三人も拾うなど余程のこと。この子たちは村に来る運命だったのではと思うようになった。トパパには「単なる偶然」と否定されたが。
 そんなことを考えるうち、いつしかニーナの意識は十七年前の、初めての出会いをしたあの日に飛んでいた。
 ニーナはカナーンに住んでいた・・・といっても、そこの出身ではない。物心ついたときにはカナーンの教会の孤児院にいたのだ。だから、本当の出身地や親の顔は知らない。孤児院に来た経緯も聞かされていなかったが、知らないほうが自分にとってはいいからなのだ、と思うようになっていた。
 十四歳のときに孤児院を出されると、つてを頼ってウルの宿屋で働くことになった。そこでトパパの息子カイに見初められて結婚したのだが、幸せな生活は長くは続かなかった。
 三回目の結婚記念日を目前にしてカイは死んだ。いつものように早朝の散歩に出かけ、突然の落雷に撃たれたのだ。ニーナは半狂乱になりながら、変わり果てた夫にすがり付いていた。その出来事が原因で、ニーナの中に宿っていた小さな生命の灯も消えてしまった。
 それ以降、ニーナは口数もめっきり減り、黙って家事をこなすだけの日々を送り続けた。さもそれが自分の義務とでもいうように。トパパや村人たちは心配したがどうすることもできず、時間が過ぎるのを待つしかなかった。その間ニーナは、何もしないでいるのが嫌なのか、ひたすらに家を掃除し、食事を作り、洗濯をし続けた。机や床の磨き方は、そのうち家が消えてなくなるのではないかと思うほど熱心で、掃除の大会があれば優勝間違いなしと思われるくらいだった。
「ニーナや・・・カイがいなくなった今、わしの面倒を見る必要もないじゃろう。おまえさんはまだ若い。わしは大丈夫だからそろそろ新しい相手を探したらどうじゃ?こんな老い耄れのことなぞ忘れて・・・」
 トパパは何度かこう言ったが、ニーナは決して首を縦にはふらなかった。トパパとしては、ニーナに新しい人生を歩いて欲しかったが、ふたりきりの生活は一年を迎えようとしていた。

 この日、ニーナはいつになくそわそわしていた。何故かは分らないが、心が落ち着かなくて仕方がないのだ。朝食の魚を生のまま出したり、収穫したての泥だらけの野菜をそのまま調理しようとしたり、取り込んだばかりの洗濯物を地面に落としてしまったりと、トパパも不審に思うくらいだった。
 何かが来る。朝からそんな気がして胸が高鳴っていた。自分たちの生活を一転させそうな何かが・・・。日が高く昇ったとき、それは頂点に達した。と同時に家の扉を叩く音。
 ――やっと来た!そう思うや否や、ニーナは扉を開けていた。
 目の前に、顔をフードで隠した男性が立っていた。だが真っ先に目が行ったのは、彼の腕に抱かれた玉のような赤子だった。
「あ、あの・・・」
 幾分予期していたこととはいえ、いざ現実になると戸惑いを隠せない。と、男性はニーナに赤子を差し出した。
「この子はこの世界にはなくてはならぬ存在――どうかこの子が成長するまで守っていて欲しい」
 それだけ言うと、男性は踵を返した。
「ま、待ってください!」
 ニーナは託された赤子を抱えたまま後を追おうとしたが、男性の姿はどこにもなかった。赤子は何もなかったかのように、すやすやと眠り続けていた。
 赤子はトパパによって「ユウ」と名づけられた。
 そして、この日を境にニーナの表情が明るくなった。
 その日は、三日ぶりに快晴が訪れていた。ニーナは一歳のユウを連れて、村のはずれを散歩していた。晴れてはいても、雨のなごりでかえって空気が重く、更には蒸し暑さも感じる。単に暑いより、蒸し暑いのがニーナは苦手だった。セミのすだく声がそれに拍車をかける。
 一方のユウはといえば、三日ぶりに外に出られたことが嬉しいのか、ニーナの手から離れてあちこち走り回っている。

 ユウを託されて一年と四月が経っていた。正直なところ、男の「この世界にはなくてはならぬ存在」という言葉はよくわからない。だがひとつだけ確実に言えるのは、「ニーナやトパパにとっては、ユウはなくてはならぬ存在」ということだった。

  飛んでいる蝶々を夢中で追いかけているユウに、
「そんなに走ると危ないわよ!」
 と、ニーナが言った途端、ユウは小石に躓いた。バランスを失ったユウの身体は一瞬宙に浮き、引力に従って転倒した。ユウの上半身が到達した場所は運悪く泥水が溜まっており、バチャンと水音をたてて突っ込んだ。
「ああもう、だから言ったじゃない!」
 先程とは一変、火のついたように泣き出すユウに駆け寄り、ハンカチで泥だらけの顔を綺麗に拭いた。膝には擦り傷が出来ている。ニーナはユウの手を引っ張って立たせ、
「帰るわよ」
 と身を翻そうとした。が、ユウが歩こうとしないので自然にニーナの足は止まる。
「ほら、さっさと来る!」
 当のユウは、一点を見つめたまま微動だにせず、
「あっち、なかま、いゆ」
「え・・・?仲間・・・?」
 ニーナは、急に様子の変わったユウに戸惑いながら訊きかえした。しかも話し方も顔つきも今までとは全然違い、目に力強さが感じられる。意味のある言葉はまだあまり発することが出来ないはずだが・・・。と、ユウが走り出した。それも先程とは違う、目的地に向かっている走り方だ。速度も大人のそれと大差ない。ニーナは慌てて後を追った。
「どこに行くの!?」
 ニーナの問いにも答えず、ユウは走り続けた。やがてふたりは楡の大木までたどり着いた。トパパが子供のときからあるという古木だ。ユウは背伸びして木のうろを覗き込み、
「かーたん、ここ!ここに、ぼくのなかまがいゆ!」
 ニーナは身をかがめてそっと中を覗き――絶句した。
 赤子が――上質な絹で出来た産着をまとった赤子がぐったりと倒れていた。産まれてから数日は経っていると思われた。そして、赤子の左肩は酷く焼け爛れていた。一瞬死んでいるのかと思ったが、首筋に指を当ててみると、微かな脈動を感じられた。
「あ、ああ・・・」
 ニーナは予期せぬ事態にあたふたしたが、必死に心を落ち着かせて自分のなすべきことを考えた。
 まずはこの子をウルに連れて行かなくては。そう思い、赤子を上着でくるんで抱き上げたとき、何かが産着から滑り落ちてニーナの足に当たった。
「あら?」
 拾い上げてみると、銀の十字架のペンダントだった。この子の身元がわかる手がかりかもしれない。ニーナはそれを産着に挟みなおした。
「ユウ、帰るわよ!」
 ニーナは右腕にユウ、左腕に赤子を抱きかかえて急ぎ村に帰った。そのときにはユウは既に一歳の幼児に戻っていた。 
 赤子はトパパの白魔法によって回復したが、火傷の痕を完全に消すことはできなかった。最初、虐待の果てに捨てられたのかと思ったが、火傷以外にアザなどの外傷はなく、栄養も行き届いていたようだった。
 大喜びのユウが、眠る赤子の頭をガシガシなでているのを見て、トパパとニーナは自分たちで育てる決意をし、ジョーという名を与えることにした。
 
「ユウが来てから・・・もうすぐ五年か」
「そうですね」
 午後のお茶と手製のスコーンを運んできたニーナが同意する。突然育ての親になり、周りの助けを借りて何とかここまで育てられた。これからどうなるかは分らないが、今は幸福だと感じている。それでいいと思っていた。未来のことを考えるのは、そのときになってからでも遅くない。
「ふたりとも・・・なんとも不思議な子だ。ある日突然目の前に舞い降りてきて・・・わしらの心の空白を埋めてくれた」
「わたしも、そう思います」
「ああ・・・だが、時々不安になるのじゃよ」
 その言葉に、ニーナは怪訝な顔をした。トパパはお茶を一口啜り、
「ユウを連れてきた御仁が言ったことがどうにも気になっていてな・・・『この世界にはなくてはならぬ存在』・・・。その言葉の意味を考えていると、いつかわしらの前から永遠にいなくなってしまうのではないかと、思ってしまうのだ・・・」
 ニーナは驚いてトパパを見た。
「もしかしたら、ユウは何か特別な使命を持って生まれてきたとか、或いは天からの使いとか・・・そういう意味なのかもしれない。それはジョーにも言えることだ。ここに来たのも、ユウが見つけたのも、ふたりは何か深い結びつきがあると思えて仕方ないのじゃ・・・」
 ニーナは呆然とし、そして次の瞬間には勢いよく立ち上がっていた。その拍子にカップが倒れ、お茶が零れる。そのまま感情に任せ、
「いなくなるとか、世界に必要だとか、特別な使命だとか・・・そんなこと考えたくありません!たとえ何があっても誰が何と言おうとも、あの子たちは、わたしにとっては、わたしにとっては大切な・・・!」
 後を続けられず絶句するニーナに、トパパは慌てて手を振り、
「わかっとる、わかっとる!これは仮の話じゃ、悪かった!あの子たちは紛れもなくわしらの家族じゃ!ほら落ち着け、ふたりが戻ってきたぞ!」
 後ろを振り向くと、いつの間にかユウとジョーが食堂に入ってきていた。服も身体も汚れている上に、川に入ったらしく両足が泥と水で濡れている。それを見てニーナは冷静さを取り戻した。
「もう、またそんなに汚して・・・たらいにお湯溜めてるからそれで行水しなさい。服は自分で洗うのよ。綺麗にした後でおやつにしましょう」
 ふたりが風呂場に行くと、ニーナは着替えを取りに行くために部屋に向かった。この家には珍しくない光景。この平凡な出来事の中で、ニーナは自分が母親だという自覚がますます強まるのだった。
 
 トパパとニーナが、男が告げたことの真の意味を知るのは、これより十二年後のことになる。

 そしてふたりは、三人の旅の無事を願い続ける日々を送るのだった。
「ユウ」
 船室に、メグが入ってきた。ユウは読んでいた本から顔を上げ、
「なんだ?」
「これ・・・ダスターで買ったんだけど・・・」
 メグは包みを差し出した。開けてみると、新しい旅用の手袋だ。
「今日・・・誕生日でしょう?だから・・・」

「そうだったっけ?あ、この間アムルでおまえの誕生日祝いをしたばかりだしな」
 ユウとメグの誕生日は十日ほどしか離れていないのだ。
「ありがとう、使わせてもらうよ」
 ユウは手袋をはめて、拳を数回握ってみた。ゴワゴワ感もなくしっくりくるので、剣を振り回しても脱げたりずれることはなさそうだ。
「明日サロニアに着くのよね。ねえ、向こうでお祝いをしましょうよ。わたしのときみたいに」
「いや、気持ちだけで十分だよ。これももらったことだし」
 ユウはこう答えたが、今サロニアで何が起こっているのか気になって仕方なかった。ナイトメアーの最期の言葉に加え、リリーナの言葉が引っかかっている。もしかしたら、サロニアにもすでに魔物の手が伸びているのかもしれない。
 ユウは窓に視線を移した。重く果てない闇が、空に広がりつつあった。